悔改めが幸いなのだ/H1>

チア・シード

詩編32:1-11   


沈黙は金という言葉があります。けれども沈黙は骨を朽ちさせると詩人は言います。自分ひとりの内に閉じこもっているとき、ただ呻いているとき、ひとは魂が死へと落ち込んでいくのです。そこでふと気づく。主に告げよう、自分の罪を隠さず主へ開き示そう。罪の意識があるだけでなく、それを主へと開き渡すかどうかが鍵になるのです。
 
私は背いている。主に従っていない。そのことを、当の主に告白します。この時、自分が主人たろうとする志向は断ち切られ、主を信頼し主をこそ主人とする関係が成立します。主は必ずやその背きを赦し、切れていた関係を結ぶことへと問いかけ、呼び出し、引き入れてくださるからです。主に祈る人はきっとそうだろうということも認めます。
 
神とひととのつながりについて、私たちはもっと重きを置いて考える必要があります。自分が何かをするとかいうことにばかり、どうしても注意が向きやすいのですが、自分がどうかということよりもまず、神と自分との関係がどうなっているか気にかけなければならないということです。詩人にとっても、これが一番大切な点になっています。
 
主こそ我が隠れ場である、という確信は、そのつながりがあるからです。主との関係が筋の通ったものとして確実に存在するのでなければ、この信頼はありません。自分がはっきりと主に告白するという形で、主との関係が信頼という絆で結ばれているからこそ、平安のうちに祈ることができるし、自分は究極的に護られていると考えていられます。
 
神から自分に投げかけられたメッセージをも詩人はここに遺します。目覚めさせ、行くべき道を教えよう、という言葉をもらったのです。主の諭しを理解するこの心すら、主から与えられたものとするなら、自分に引け目を覚える必要もありません。ただ、罪としか呼べない何かが自分にあって、主の前に跪くことで、赦しが与えられれば大丈夫です。
 
悔改めの詩がいくつかあります。これもその一つです。しかし次の33編は、ひたすら賛美の詩であり、この32編からスムーズにつながるようにも見えます。だから私は、この詩を単なる悔改め、痛悔の詩だとは考えたくありません。そもそもこの詩は「幸いな者」と始まっているではありませんか。打ちひしがれた人が、まずここから始めることはありません。
 
この詩は、悔改めを超えてきた魂による賛美であるとは言えないでしょうか。幸いな者で始まり、喜び歌えと結ばれる詩に、悔改めが挟まれている。逆に言えば、自らの罪に気づき、慄き、絶望することなしには、神への賛美も魂の喜びもなく、幸せもないのだ、とするべきでしょう。だからまた、悔改めは幸せであり喜びである、とまで言ってよいのです。


Takapan
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