自らの罪に気づく幸せ

チア・シード

詩編32:1-11   


「幸い」からこの詩は始まります。新約聖書を知る者なら、山上の説教を思い起こすことでしょう。詩編は豊かに新約の伏線を与えてくれます。背きなり咎なり、そして罪なり、すべて神に対する罪を臭わせる語で、言葉はいろいろ変えてきていますが、それはレトリックと見なすことができます。そこから離れるならば幸いであり、神に祝福されるというのです。
 
当たり前のことのようですが、そこにこそ喜びがあるという告白にもなっています。しかし、何が背きなのでしょう。何が罪なのでしょう。詩人は、黙っていることがそれを最悪にすると考えています。黙していると心が苦しくなりますし、罪を告白しないということは、罪を罪として認めていないということの証拠にもなります。
 
フランシスコ会訳は、黙るのではなく「呻いた」と逆のような訳をもってきました。苦しみを呻きで表すのは自然なことですが、ずいぶん詩の与える印象が変わります。但し、罪を隠さないというところに持っていく点では変わりがありません。自分の罪を知ること、認めることでもあります。さらに根底を言えば、気づくことです。
 
そもそも私たちは、自分の罪に気づきません。気づこうともしませんし、気づきたいとも思っていません。常に自分は正義の味方だと思い込んでいます。近代人は特にそうです。個人の尊重という憲法のような法にしがみついているからです。しかし本来個人の尊重とは、他人を尊重することをいうのであって、自分を正義とすることとは違うはずです。ちょうど、憲法が政治を抑制するためにあるのと同じように、自身を誇ることを第一とすべきではありません。
 
神を愛するということは、他人を愛するということです。そうすると神の慈しみなり恵みなりを知ることになります。自分で自分を尊重する、自分を愛することに溺れるならば、神からの愛に気づく余地がありません。神が自分を守っていることにも思いが及びません。
 
自分の罪に気づくとき、神への祈りは、いつしか神から私への諭しへと転じます。詩編は人間の叫びばかりが書かれてあるようですが、いつしか神からの視点をもたらしてくれていることがあります。詩人たちの不思議な経験がそうさせますが、これは現代でも説教という場で実はなされている出来事であると言えましょう。
 
行くべき道を神は教えると言います。分別なき獣のようであってはならないと告げます。神は獣には手綱をつけ、抑えにかかります。人を支配しようとする悪を放任はしないのです。神は人を愛し、支配の力を掲げます。神の支配とは神の国のことです。神の国がちゃんとここにあり、成立していることが分かるでしょうか。
 
悪者はその支配の下に実は置かれているから、罪を嘆き悲しむことになます。それでよいのです。私たちもまた、自らの罪に気づいて嘆きましょう。ただ、それがイエス・キリストにあって赦されているのだという事実によって、喜びと変えて戴きましょう。喜び躍る人生というのがあるのです。それは自らの罪を告白するところから始まる人生なのです。


Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります