地上の王と教会

チア・シード

詩編2:1-12   


なぜという問いは、本来そうではないという前提を含んでいます。世界の国々は、なんと空しいことを呟いていることか。権力者は、主なる神に逆らうことはできないはずではないか。この神は、こんな人間どものすることなど相手になさらない。イスラエルは、そのような神に救われている。これは、他の民族の神とこの神とが争うというものではありません。
 
私たちの主は、すべての主。私はこの方を信頼している。ここに、確かに関係が成り立っています。これなしでは、何ものも存在しない、価値がないのです。この関係は、驚くべきことに、神は私を信頼している、というところにまで行き着きます。私たちは神から信頼されているという自覚をもつことにより、襟を正され、背筋が伸びることを感じませんか。
 
この詩にはなにもキリストが描かれているわけではありませんが、いま私たちはここにキリストを見ます。それはキリスト者の強みです。旧約聖書を、キリストを通して味わうのは、恐らく純粋な読み方としては間違っていることでしょう。しかし、それを心得て自分が神の声を聞くということには、差し支えないのではないでしょうか。
 
この地の果てまでも、おまえの土地としよう、と主は私に言います。これを、戦争による占有であるかのように考えるのも自由ですが、たぶん信頼の中に読むならばそうはとりたくないものです。キリストにあって、すべては神のものなのですから、神の僕としてそれを管理するよう使命を与えられていると受け止めておきたいと思います。
 
それ故に、この地上の権力者たちに対しても、私は強く宣言することができます。神の下にへりくだれ、と。この神の言葉に耳を傾けよ、そして従え、と。そのためには、教会という共同体が、この世と対話をしてゆく必要があるように思えてなりません。陰で世の悪口を言ったところで、どこに神の栄光があるのでしょう。自己義認に何の愛があるのでしょう。
 
そう、その教会すらいま怪しいのです。詩が告げる「地上の王」と呼ばれているものが、実は教会のことではないかとすら思われるのです。神の子あるいはその足にくちづけせよ、と言われているのが教会だとすると、私たちが、そして教会というものが、道を見失わないために、いま一度神の前に跪く必要があることを、詩から教えられるべきなのです。


Takapan
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