大水を超える主

チア・シード

詩編29:1-11   


イスラエルにとり、大火事を災いと考える習慣は見当たりません。ゲヘナのように火の中に投げ込まれる罰はあり、どうもごみ捨て場に由来するらしいと聞きましたが、草原が火を拡大するようなイメージがあまりもてません。旧約聖書続編の中に「火事」「大火」という語がかろうじて見られ、実際神殿が焼かれたことを踏まえているようではありますが。
 
人々は日常、火そのものに恐怖や災禍を感じてはいなかったように見受けられます。他方大水や洪水という語なら、何十節にも見られますので、よほど怖かったのだろうと思います。雨の少ない土地柄だからこそ、雨季にいざ降ると、固い地盤にしみこまぬ水が溜まり、坂道を急流となって駆け下りるため、大きな被害を与えることがあったようです。
 
地上が突然雨雲に覆われると恐怖です。間もなく水の流れが凶器となるのです。人間にとりこの水の威力が非常に恐ろしいものと感じられます。しかしこの上に、はるか上方に、超えたところに、主が座しています。主の声が、つまり神から人へ下される、力ある言葉というものがあるのです。人は地上を這い回るしかできないのですが。
 
詩人はダビデと称していますが、ダビデその人であるかどうかは分かりません。しかし素朴な感情の歌い上げ故に、逆に本当にダビデのものではないか、という気もします。この詩では、主の声というものが強調されています。声が響くというばかりでなく、その声自体に圧倒的な力があるとされています。
 
レバノン杉を砕き、野や森を震わせます。万物を揺り動かす威力をなんとか表現しようとする詩人の心意気を感じます。この表現だけ見ると、大した力ではないかのように見る人がいるかもしれませんが、洪水の上に超えて働く神の力と声は、人間にとりどんなに大きく脅威であったことかと想像できます。
 
詩人は最後に、この神の力を、イスラエルの民に与えてくださるようにと祈っています。イスラエルの民が祝福されるようにと結んでいます。大いなる力をもつ主が目をかけたイスラエル民族です。この民は、神の子という自覚をもっています。主の前に主を称えてひれ伏す民は、聖なる装いで礼拝をするのです。そこに平和がつくられます。


Takapan
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