主の声は

チア・シード

詩編29:1-11   


神の声を聞いたことがあるでしょうか。聴覚的な音の響きとして感覚されることは、通例ないと考えられます。旧約の人物たちが、そして時に新約の人の中でも、神の声や御使いの声を聞く現象が聖書には記録されています。あれも、すべて音波的なものとは違っていたのでしょうか。心に思いついたことを主の声だと思い込んでいるのでしょうか。
 
だから中には、あれはメタファーに過ぎない、と決める人もいます。しかし他人の感覚や体験については、なんとも決定できないことでしょう。幻覚だよとせせら笑ったり、精神的な病気だという説明で理解し尽くした顔をするのはどうしたものでしょう。聖書が何をそのように記しているのか、それは私たちには知ることができません。
 
確かに、幻聴をお告げだとふれまわり、集団催眠すら起こしてしまうような事件が見聞されないわけではありません。やたら信用する必要もありませんが、すべてを否定できるのかどうかは分からないものです。あの少年サムエルが聞いた主の声は、心の内からではなく、外から聞こえたものとして描かれています。しかも三度も聞いたのです。
 
詩人はこの詩で「主の声は」と繰り返します。小気味よくそのリズムが詩を整えます。主の声は大水の上にある。大水はよく苦難のメタファーであるとされますが、乾燥した地は水はけが悪く、大雨が降ると大地の上で恐ろしい水流となり被害をもたらすといわれます。創造の大地の水も大海の威力を以て人間世界を取り囲んでいます。
 
人の力がなんと弱いものか、思い知らされます。主の声はこの威圧するものを超えたところにあります。炎にも比せられるし、大自然をも無力にします。主の声ひとつが、そうします。主の声は私の心の中の出来事に収まるものではないはずです。主の声は、私の存在の中からではありません。私の外から来ます。主の声は圧倒的な威力を以て外から来きます。
 
御名の栄光が玉座に君臨しています。この主が民に力を与えるように、と詩人は祈ります。個人の祝福を願うというような、いわば小さなものではありません。教会のため、キリスト者すべてのために、主の民と呼ばれるすべての人々の上に、主の声あれかし。詩人はいま隣人、仲間、同胞のために、その祝福を祈ります。私たちも、心合わせて祈ります。


Takapan
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