王としての祈り
チア・シード
詩編28:1-9
詩人は、信仰を一人の先輩として教えてくれます。ただ人が主の前に出て、差し向かいになっているだけの図式とは違うものを見せてくれます。人として、どのように神に向き合ったのか、その経験を語ってるからです。「主よ、あなたに呼びかけます」とダビデが言葉を発します。そうだ、主に向かって呼びかけてみよう。主の名を呼びましょう。
でも、主の声がストレートに返ってこないなら、どうしましょう。「沈黙しないでください」と願ってみるのはどうでしょう。「私の声を聞いてください」と頼んでみましょう。「救いを叫び求める」ようにしましょう。ここに「悪しき者や悪事を働く者」をダビデは持ち出します。復讐や呪いを感じさせる詩は、聞いていてよい気持ちにはなれません。
しかし、人の世の悪を見据えることをせず、そこから目を背けているだけならば、自分の中の悪からも目を逸らすことになりかねません。口先で平和を掲げたとしても、心の内に悪意を満たしているような者には、神は報いをもたらすでしょう。「主の働きと手の業を悟ろうとし」ない者のように、私はなりたくはないと思います。
詩人はどうしたものか、突然確信を与えられます。「私の声を聞いてください」が今や「主は嘆き祈る私の声を聞かれた」と喜びます。詩人の心は主を信頼しています。主に助けられます。心が喜び躍ります。ダビデは「歌を献げて主に感謝する」と言い、主こそ力だと褒め称えます。事実ダビデは多くの詩を生み、こうして主を賛美し続けました。
神の箱を取り戻したときには裸で躍ったほどです。但しここでダビデは「主こそ、その民の力」と言い始めます。「私は」「私を」「私の」と言い続けてきたダビデが「民を」前面に出してきます。そして「民を祝福してください」と願い、「とこしえに彼らを養い、になってください」と結びます。さすが、ダビデは一国の王であるのでした。