主とつながっていれば

チア・シード

詩編27:1-6   


ダビデの詩であるとすると、ダビデは今ピンチです。「誰を恐れよう」との反語で勇ましく立ち上がっていますが、実は誰かを恐れている姿を意識しているからこそ、そう言うのです。「わが光、わが救い」と叫ぶのは、それが現実の目の前に見当たらないからです。「誰におののくことがあろう」と言うからには、恐ろしいものに直面しているのです。
 
肉を食らおうと近づく者が、そこにいます。たとえばサウル王からの執拗な攻撃を、ダビデは辛く感じていたことでしょう。それほどのエネルギーをダビデ一人に向けるサウルは、よほど暇なのかとすら思いますが、狙われた方はとにかく必死です。ペリシテ人のような敵はもちろん、百戦錬磨のダビデとて、常に戦いに勝利するという保証はありません。
 
「私の心は恐れない」とそれでもダビデは叫びます。強がりのようにも聞こえます。いえ、「私の信頼は揺るがない」との声は、空元気ではなくて、確かな信仰です。ダビデは、一つのことを主に願います。「命のあるかぎり」主の宮で、尋ね求めるのです。逆に言うと、主と結びついた関係を保っている限り、命がある、と考えてもよいような気がします。
 
「災いの日」もあります。しかし命も与えられます。しかも私は、主により高く引き上げられます。「歓声をいけにえとして献げ」るとき、まず歓声が上げられます。これは勝利するということを信じているための、信仰の歓声です。歓声が先行するのです。実際に勝利するのを見てから歓声を上げるのではなく、まず喜びの声を上げるのです。
 
「主に向かって歌い、ほめ歌を歌おう」と呼びかけますが、この詩そのものが主に向かって歌うほめ歌でした。まず歌っています。だからこそ、勝つのです。それはまた、自分の中の弱さに打ち勝つ勝利でもあるでしょう。ダビデは何を「一つのこと」として主に願ったのでしょう。主につながり、主と共にいること、それでした。


Takapan
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