エルサレムの城門

チア・シード

詩編24:1-10   


礼拝の交読文でおなじみの詩です。主を招くような描写で、儀式にも相応しい。ダビデの詩と言いますが、ダビデが作ったとすると、どういうシチュエーションでこれを歌ったのでしょうか。契約の箱をエルサレムに運び入れた時のセレモニーであると見ると、私たちは納得がいくかもしれません。栄光の王の入場として違和感がないだろうと思います。
 
地と地上のすべては主のもの。それらを創造したのはその主なる神です。この主がいまイスラエルの都に入場するというのです。考えてみれば、これはなんと愚かしい幻想ではないでしょうか。そのような創造主が、神殿すらまだないできたての小さな町に入ってくるというのです。都の中に入ってしまうほど創造主が小さいとでも言うのでしょうか。
 
エルサレムは高地にありますから、山へ上ってきて主の前に立つという巡礼の姿にも重ねられるため、後世の習慣が取り入れられているとも考えられます。この場合「上る」というのは、山に「登る」に留まらない意味をもつので、やはり「上る」です。このエルサレムへ来る巡礼者よ、喜べ。神があなたを祝福するのだ。
 
契約の箱をペリシテ人から取り戻して自ら建てた都なる城壁の町に運び入れたダビデの歓喜が伝わってきます。ダビデが作った詩ではないなら、ユダヤ人の自負とでも言いましょうか。それでもこの詩は人々に愛され、神の言葉として聖書という扱いを受けています。交読文としていまなお私たちは教会の礼拝で唱え続けているほどです。
 
エルサレムは町であり、当地では城壁が築かれていました。外敵を防ぐためです。その中央に神の聖所があり、幕屋の最奥は至聖所と呼ばれる特別なところでした。そこに主はおられると考えます。もちろん、ソロモンの祈りにあるように、神はそんな小さなところに収まるお方ではないのですけれど。
 
この町は、私自身であるとは考えられないでしょうか。主を迎えているか自問します。主が地を、そしてすべての存在を満たすのであれば、私が主を排除しない限り、私をも満たしているはずです。私の中へ入ると言ってもよいのですが、私が大きい故にその中に小さな主が入るのではありません。私を満たすのです。
 
その私が主を拝するというときは、まるで主の山に上るようなものだと言ってもよいでしょう。私は主を求め慕います。閉ざされていた城門の内側へ主を迎え入れましょう。私が心を開いて、主に入って戴きましょう。私の罪が門を閉ざしていました。主をシャットアウトして、自分が独立した主人であるような顔を平気でしていました。
 
バアルという偶像は、主人という意味ももちます。私はバアルを崇拝していました。私が主人となっていたからです。自分しか信用しないなどと嘯いていたき、私はバアルを信じていたのです。しかし私はいま見ます。栄光の主です。栄光はドクサ、それは哲学では臆見のことですが、見ることに関係するとなると、主を見、その輝きを目撃することと言えるのです。


Takapan
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