私を苦しめる者の前で

チア・シード

詩編23:1-6   


通読表には毎年、この詩編が選ばれてきます。その度に、同じように読むしかないのか。いえ、そんなことはありません。その都度、心に響くことが違ってよいのです。「主は私の羊飼い」と呼ぶだけで、大きな慰めが及びます。主の恵みをここから沢山受けるのも確かです。神の恵みと慈しみが私を追ってきます。命ある限りとは永遠のことと感じます。
 
地上の命しかダビデは見ていなかったかもしれません。でも、今のこの命が神との関係を与えられることによって、永遠の命と呼ばれるものになるとも考えられます。私たちはそれを握りしめています。「乏しいことがない」というありがたさも、この詩から与えられる励ましです。私の魂は生き返らされ、憩いを覚えます。
 
けれども、ここには別の存在があります。「たとえ死の陰の谷を歩むとも」とは、単なる仮定のことのようには思えないのです。死の陰の谷へ私を追い込もうとする者がいます。絶望が追いかけても逃げ切るように走れ、と妻へ残した夫の遺言が、朝ドラで評判になっていました。絶望も私を追いかけます。でもダビデによるとだいぶ違います。
 
神の恵みと慈しみこそが、追いかけてくるのです。驚きです。しかし、死の陰という気配はきっとあるでしょう。それは「私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる」という言葉にはっきりと現れています。「苦しめる者」の存在は、決して仮想の話ではありえないと思うのです。私を苦しめる者がいて、私は苦しめられているのです。
 
ダビデにとり、それがいつ誰によって苦しんでいたことなのか、探究することは好い趣味ではありません。問題はそんなことではないからです。私こそが問題です。私に現に相対している敵がいて、そこから逃れる道を主が備えているということを、私が主に対して告白し、噛みしめる必要があるのです。私は主の家、神の国に住むと信じていますから。


Takapan
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