絶望と希望の交差の果てにある世界
チア・シード
詩編22:1-24
十字架の上で、イエスは最期を迎えるときに、七つの言葉を口にした、と言われます。福音書にはそれぞれバラバラに載せられていますが、この詩編の言葉は、マルコ伝に続いてマタイ伝も掲載しています。詩編22編の冒頭です。「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか」という言葉は、確かにこの詩編の始まりの言葉だと見なされます。
最期の言葉としてはもちろんですが、その内容がショッキングです。イエスの心情がこのような絶望の中にあったのでしょうか。それが人を救うメシアの言葉であってよいのでしょうか。これが神の子も吐く言葉であってよいのでしょうか。しかし、人間の弱さを背負ったからこれでよいのだ、イエスは弱いのだ、と説明する研究者もいます。
それは本音そのものであり、イエスは惨めに死んだのだ、とまで言う人もいます。他方、この詩を終わりまで辿れば、後半から神への賛美へと移ってゆくことから、イエスはそれを言うために冒頭を口にしたのだが、終わりまで言う前に絶命したのだ、という理解をする人もいます。しかし、一人ひとりがその信仰により受け止めることが大切でしょう。
いま私たちは、この詩の3分の2ほどを取り上げましたが、邦訳で分けられた連の初めの句だけを次々と拾って見渡してゆきます。冒頭の句の部分に続いて、「しかし、あなたこそ聖なる方」と神を称え、「だが私は虫けら。人とは言えない」と自分を見つめます。「まさにあなたこそ、私を胎から取り出した方」だとまた主を称えます。
それから「多くの雄牛が私を取り囲み」に始まるところでは、また自分が惨めな立場に追い込まれた情況を明らかにします。そこで「主よ、あなただけは遠く離れないでください」と、また主の方へ向き直ります。こうして、現実の自分と信頼すべき主とを交互に見ながら、詩は進みます。この後も「苦しむ人は食べて満ち足り」(27)と主を賛美します。
「地の果てまで/すべての人が主を心に留め、立ち帰るように」(28)と、世の国々、世の人々すべてに目を向けるようになります。弱い自分と強い主とを見比べるように進めてきた詩は、ついに人々に直接声を届けるようになります。自らの地味と救いの神との関係ができたなら、私たちは、この救いの主を勇んで伝えにゆくのです。