ダビデの祈りであること

チア・シード

詩編22:1-6   


イエスの断末魔のような叫びと共に響いてきます。イエスが十字架の上でこの詩編の最初の部分を言ったという記録があまりにも有名です。わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか。これは余りにも弱気で絶望的で、こんな言葉を吐く者が神だというのはおかしい、と小馬鹿にする人がいます。確かにあまりにもただの人間です。
 
キリストは果たして絶望したのか。それともこの詩の末尾が告げるように、救われるすべての民への希望へとつながるのか。神学的な解釈の対立はしばしばこうした議論を招きます。けれども、その議論は忘れています。少なくともあまり表に出しません。この詩が、ダビデ王の詩であること、ダビデの祈りであるということです。
 
ダビデの生涯の、どの場面で何を思いつつこの詩が生まれたのか、それはどうやら特定は難しいようです。各人が想像するばかりです。近年の研究者は、ダビデの作ではないのではないか、とまで言っています。けれどもダビデの名に載せたというだけでも、この詩がダビデに相応しいと考えられたからであって、本質的な謎は解決しません。
 
どうしてダビデなのでしょう。冒頭はどうにも救いのない言葉です。見捨てられ感が強すぎます。答えのない問いを私は独り呟き続けるばかりです。それでも私は主を崇める、あなたに賛美をする。これがダビデの信仰です。時にダビデ個人の性格であるかのようも思われますが、どうやら違います。詩人は、イスラエルの歴史を見つめているからです。
 
イスラエルの民は、そしてダビデの先人は、主に信頼したのです。主を信頼した故に救われました。それを歴史が教えてくれます。荒野で主に叫ぶと、食べ物が与えられました。敵に及ばないと嘆き悲しんだとき、主が戦って勝利しました。主を信頼していたからです。この主への信頼を、ダビデは握りしめました。先人の信仰をも今に起こそうとしたのです。
 
私は確かにいま、困っている。先行きが不安であるし、孤独である。祈っても応えられない。痛いほどその情況の中にあるダビデ。それはいまの私たちの姿かもしれません。それでもダビデは主の方を向いていました。主しか縋る相手がいませんでした。この故に、ダビデに免じて以降の王が助けられ他のです。キリストの出現へとつながったのです。


Takapan
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