詩編の表紙

チア・シード

詩編1:1-6   


一連の詩の表紙の役割を果たすかのような、第1編です。「幸いな者」と始まるこの詩全体が、表紙に相応しいものだと見られ得るのです。幸いな者は、消極的なところからスタートします。悪しき者の言葉に乗らない。罪人の道を行かぬばかりでなく、立つこともしない。嘲る者の立つところへ寄り付きもしない。ここからです。
 
確かに激しく悪をなすというばかりでなく、その発端すら忌むべきだ、ということは、正しい道の始まりとして相応しいことでしょう。私たちのキリスト者としての歩みもまた、そのようなことでありましょう。さあ、正しい道を行こう、というよりも、まず悪に敏感になり、それをわずかでも避けるということは、望ましいものです。
 
あるいは、それまでそのような立場にあった自分に死に、新しい命に生かされて生きることを始めるのだ、と言ってもよいでしょう。流れのほとりの木のように、主から潤いある栄養を受け、育つようにされます。実を結び、枯れることがありません。豊かな水は木の内へと入り込んできます。生ける水は私の内に入り、内から命として働くのです。
 
そうなったとき、その立場から悪しき者の側を改めて見ます。かつて自分もそこにいました。今でもひとつ間違えればそちらに滑り戻ってしまうかもしれない可能性をもつサイドです。そこには、風に散るもみ殻のような者がいるばかりです。風、即ち神の霊が迫るとき、その裁きの力によって、散り散りに滅んでしまうのです。
 
これを、詩人は神のサイドから見ているのですが、それはまた、150の詩編全体のスタンスです。そこから詩人たちは主を歌い、賛美しているのです。そこでこの詩編はその表紙として、全体に相応しいタイトルを掲げ、内容を象徴しています。これらの詩は、ただの人間の思いではない、神との交わりの内にある、幸いな者の姿を表すのだ、と。


Takapan
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