本当に揺るがないのか

チア・シード

詩編16:1-11   


ダビデの生涯は、様々な場面が聖書に描かれています。人間の感情を多角的に捉えることができます。この詩は、危機に瀕してのものでしょう。敵からの危機というよりも、一見幸せで充足している言葉ばかりが並んでいる中に、不穏なものを感じます。詩は冒頭から「私を守ってください」と求め、「あなたのもとに逃れました」と告知します。
 
いまダビデは主の前にいます。主を「あなた」と呼ぶのは、形だけのものではありません。正に主と向き合っているのです。「私は絶えず目の前に主を置く」と言っている通りです。それに続いて「主が右におられ、私は揺らぐことがない」と言っているように、主に確かな信頼をもっていることも分かります。信仰はこうありたいものです。
 
さらに、「それゆえ、私の心は喜び/心の底から喜び躍り/この身もまた安らかに住まう」と畳みかけていますが、さて、これは本当に本当なのでしょうか。ダビデの信仰を問題視するつもりはありません。人間としての信仰一般を問うているのです。私が、このようなことを口にすることはありません。それを曲に乗せて賛美の歌を歌います。
 
そのとき本当に、「揺らぐことがない」のでしょうか。ダビデがどうとかいうことではなく、ダビデの言葉の中に、私の貧しさを覚えてしまうのです。「あなたは私の魂を陰府に捨て置かず」「滅びの穴を見せず」などと言うのは、陰府や滅びの穴を意識しているからに違いありません。それらが頭にちらついているのは事実なのです。
 
しかし、「その先には「命の道」があることも知っています。ダビデはこれについて「幸い」だと言い、「満ち溢れる喜び」であると言いますが、その具体的な有様を見せてくれるわけではありません。ただ「あなたこそ、私のくじを決める方」だと言い、「私は輝かしい相続地を受けました」と言うだけです。主が運命を握っていると理解しています。
 
そこにあるのは、主に委ねる心と、恵みへの確かな眼差しです。それをダビデは証ししています。このとき憎むべきは「他の神を追う者」です。ダビデの目には、ペリシテ人の偶像が映っていたのかもしれません。けれども、私たちはもっと自身の「はらわた」を意識するべきではないでしょうか。命の道を見失うとすれば、そこからであるからです。


Takapan
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