救いの存在と認識

チア・シード

詩編16:1-11   


ダビデの詩と記されていますが、フランシスコ会訳はこの詩を、カナンの異教から改宗した人物の思いではないかと解説しています。主へ逃れてきて、主こそ神と呼びかけていることや、他の神の礼拝をしないと誓い、そんなことを続ける者は呪われよというなど、この解釈はなかなかしっくりくるのではないかという気がします。
 
他の神を拝するのは罪です。罪は聖書の教えから欠くことはできないの概念ですが、この「罪」という日本語訳が与えるイメージが、元来の聖書の神との出会いを妨げている可能性を問う必要はあるだろうと思います。俺は罪人ではない、と反抗する思いが人に起こるということのほかに、そもそもその罪の意味するところが何かという点においてです。
 
罪という語が単数か複数かという違いを、特にパウロの思想の中に見ることもできるでしょう。単数のほうは、贖うべき諸々の罪の行為を統括するような、一つの原理や総称であると理解することが可能ですが、そもそもその罪とは行為云々というよりも、主なる神に向かない心に罪の根本を置くというような考え方に基づいているような気がします。
 
詩人は後半に、この主からもたらすれる良いこと、つまり恵みを挙げ、常に主の許にあるゆえの決意と喜び、平安などを歌います。別の神々から立ち帰ってくるという経験は、イスラエルの民にも歴史上ありましたが、もともとこの民を導いてきたのが主であるというのなら、それは正に元に戻る、立ち帰るということであったと説明できるでしょう。
 
他方私たちは、元来の文化においてこの神のもとにあったわけではなく、いわば後天的に主を受け容れた者です。つまり主を信仰するようになったのは、認識において主を知り身を寄せたのであって、存在論的にまず主の許にあったとは言い難い環境にあります。もちろんすべてひとを造ったのが主であるというところまで遡れば、存在としても主が先ですが。
 
しかしより認識論的な段階によって、主と結びつくステージへ引き寄せられたというのがさしあたり私たちにとり有効な捉え方ではあるでしょう。新たなビジョンが与えられ、そこに命の道が見出されました。滅びの穴が待ち受けているような世界の中で、自分には神から命の道が示されているということであり、それが確かに見えているということです。
 
いえ、見えるようにさせられています。もう救われているのだということの証しであると供に、それはまた、この道を私が本当に択び採ってゆくかどうか、神からすれば試していることになるのかもしれません。テストでないとすれば、期待されている、としましょうか。私はそこで、主が共にいると告白して、助けを得るようにしたいと思います。


Takapan
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