ハレルヤ、主を賛美せよ

チア・シード

詩編150:1-6   


「幸いな者」(1:1)と始まった詩編が「主を賛美せよ。ハレルヤ」と結ばれます。もとより、一人の詩人が両方とも書いたわけではありません。編者がそう構成したのですが、この構成に、その信仰が現れていますし、イスラエルの民の生き方が詰まっています。また、これらの言葉は、詩編の随所に鏤められており、一つの証しとなっています。
 
イスラエルの人と神との豊かな関係がそこにあります。しかもこの結びは「息のあるものはこぞって」と付せられていました。もはや人間のみには限られません。被造物全体が神への賛美へと集まるのです。この詩編終盤の詩は、五つとも「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わります。「主を賛美せよ」を繰り返す点も共通しています。
 
結局のところ、人間の口が神に告げることができるのは、これに尽きるのです。待てよ。このフレーズは、形の上では命令形です。誰が誰に命令しているのでしょうか。もちろん日本語の「命令」という語感とは異なります。でも誰から誰それへという方向性がここにあります。人が神に、ではなく、人が人に、という流れを感じます。
 
詩人が同胞に言っているのか。自分も含めてLet'sの情況と見るのが自然でしょう。詩編の中には「私の魂よ」の言葉も散見されます。私が私に向けて呼びかけるのです。自分で自分を鼓舞するようなものです。この「主を賛美せよ」も、自分から自分へターボエンジンの如くエネルギーを与えているかのようです。
 
そのとき詩人自身が預言者として機能しています。神の言葉を受け、それを自分へ渡しているのです。さあ、角笛、竪琴、琴、タンバリン、弦、笛、シンバルと、諸々の楽器を手に取ろう。ありったけの楽器が鳴りわたります。それに合わせて、すべての被造物が主を賛美するのです。その「すべて」に、私たちも入らないはずがないではありませんか。


Takapan
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