神の国の宴

チア・シード

詩編150:1-6   


「幸いな者」と始まった詩編が、150の詩を重ねてきて行き着いたところが、「主を賛美せよ」の結びでした。「ハレルヤ」の言葉を、146編以降幾度も並べ、人は神に向けて他の凡ゆる言葉を不要とするかのようでした。それらは「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わる。「ハレルヤ」に挟まれた形でしか、人の言葉はありえないのです。
 
殊にこの150編は、「ハレルヤ」の狭間に「主を賛美せよ」がすべての行に付せられています。「ハレルヤ」の意味が正にそれですから、全編がこれに満ち、他の言葉は一切不要であるようにも聞こえます。原文では、この日本語訳とは少し違うようです。「賛美せよ、主よ」で始まり、終わるというのはよく、最後にそれが二度重なるのもまだよいのです。
 
但し邦訳では、近辺の詩に合わせて、「ハレルヤ」で挟む形式に言い換えてあります。1節の「ハレルヤ」に続いてすぐに「賛美せよ、神を」となっており、語順からすると、こちらが先に置かれていることになります。仕方ないことでしょうが、実はこれら4箇所の他の、挟まれた部分はすべて代名詞で「賛美せよ、彼を」なのです。
 
もちろん、日本語で神を「彼を」と呼ぶのは馴染みません。だから二つ目の「賛美せよ、神を」を繰り返して訳したのが間違いである訳ではありません。詩を訳すのは難しいものです。元のリズムや響きを再現することはできないからです。「神を」と言って悪いこともなく、「エル」の語を受けていると解するのは適切であると思います。
 
「ヤハ」だけは、両端とラスト2で掲げていたことだけ、私たちは知っておくとよいのでしょう。そして二つ目が「エル」である、と。さあ、主の聖所で楽器をかき鳴らし、主を称えようではありませんか。息とは「ルーアハ」ではなく「ネシャマー」ですが、息ある者が「主の聖所」にいるなら、神の国の宴での賑やかな祭典のことのようにも思えます。


Takapan
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