詩編のフィナーレ

チア・シード

詩編150:1-6   


小気味よく、神を賛美せよというフレーズが並んでいます。邦訳も粋な計らいをしました。原文だと、初めの一つと終わりの二つが、ヤハウェの名を示す「主」を賛美せよ、となっており、初めから二つ目は、「神」を賛美せよ、となっています。そして、他のすべては、代名詞扱いで「彼」を賛美せよ、という形をとっていたのです。
 
これに忠実に訳すべきかどうかは別として、このような違いまでもし日本語で分かるように訳してもらうと、原文が何故そうしたのか、と私たちは立ち止まって考えることができたかもしれません。新約聖書でも、邦訳で「イエスが」「神が」と日本語で示すほうが当然スムーズな日本語であるのですが、「彼が」がどちらなのか議論も起こりうるのです。
 
原文には実は、代名詞になっているところが非常に多く、さらに、動詞の活用形により主語が誰であるかを表せるギリシア語の特徴を活かして、主語を直接表す単語を出さないこともしばしばです。これは日本語に置き換えることは事実上不可能です。そのために、主語が実は何であろうか、曖昧な箇所があり、解釈が分かれる場合があるのです。
 
イエスが神であるとの信仰告白をするならば、「イエスが」でも「神が」でも意味は変わらない場合があるかもしれませんが、特にパウロのように筆者が分かっているときには、どちらを念頭に置いて書いているのかを想像するときに、理解の仕方が微妙に異なってくるかもしれません。さて、この詩の「主」と「神」はどうなのでしょうか。
 
この詩は、いかにも賑やかに楽器を使って主を賛美している様子から始まります。タンバリンやシンバルなどの具体的な楽器の名も現れていて、私たちも少し想像しやすいところもあります。賛美の歌というのは、様々な楽器を用いて献げるべきだ、という意見には力強い味方です。上品にしっとり歌うのもよいものですが、それがすべてではありません。
 
ダビデが踊りまくっていたのを見て軽蔑した、妻のひとりミカルは、主の祝福から外れてしまったといいます。息のあるものは、こぞって主を賛美せよ。私たちの賛美はここに始まります。詩編は冒頭で「幸いなことよ」と始まりましたが、いまやすべての存在者に呼びかける主への賛美を以て終わります。なんとも美しいフィナーレではありませんか。


Takapan
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