賛美するのは誰

チア・シード

詩編148:1-14   


天の天よ。山々よ。生き物よ。そして、人々よ。すべての存在よ、主の名を賛美せよ。詩人は呼びかけます。詩全体がハレルヤで挟まれて、たとえ繰り返されなくても、主を賛美せよ一色で塗り潰されています。冒頭では天から、そして主の使いらよ、ともちかけ、主の万軍よ、と進みます。主に近いところから順に及んでいるように見受けられます。
 
その中にある「主の万軍」とは誰なのでしょうか。天使の軍ではないかと思われます。が、これを仮に私たち、主の僕として受け止めてみてはどうか、と提案します。主に救われたての小さな者、私ですら、主の軍の兵の片隅に置かれている。この自覚を以て、顔を上げようではありませんか。だが待てよ。この詩人そのものは、いったい誰なのでしょう。
 
あらゆる存在へ呼びかけているこの発言者が、実は謎なのです。聖書はそもそも神の神の言葉である、と私たち信徒は考えています。だからこの詩編も神の言葉なのだとする考えが自然です。でも詩編は、特に人間の側からの神への叫びや問い、つまりは信仰を表しているのだ、と考えたほうが適切であるようにも見えます。
 
いったいこの詩人は誰なのか。分かりやすくするなら、それはイスラエルの何らかの代表者であるとすることができるでしょう。祭司なのか預言者なのか、あるいは王なのか。王なら、いっそダビデの詩だということにしておけばよかったはずですが、そうなっていません。共に都詣でをするイスラエルの庶民であるかのようにすら見えます。
 
けれどもそれはやはり違うでしょう。なにかしら民の上に立つか、民全体に呼びかけることのできる立場にいる者のようにしか見えません。少なくとも私のような者は、詩人と同じようや立場にはないし、同じような広い視野もありません。だから、とてもとてもこんな神の創造物すべてに対して、さあ神をほめたたえようと呼びかけることはできません。
 
でも、私はもしかすると、神から、この詩人と同じように、すべての存在者に向けて呼びかけよと言われ、またそれが許されているのではないでしょうか。上にあるものも、地にあるものも、あらゆる同胞に向けて、共に主を仰ぎ賛美しようと呼びかけようではありませんか。主の側に立つイスラエルとして、主を賛美しようではありませんか。


Takapan
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