主に貫かれた証人として

チア・シード

詩編145:1-21   


アルファベットの詩という形式があり、日本語で言うなら、「あ」で始まった行の次は「い」で始まる、というような技巧を凝らした種類の詩があります。和歌ではそういうのもありましたね。イスラエルのこのタイプの詩が詩編には少なくないのですが、翻訳は大変です。詩としての意味もありますから、結局この技巧は無視されることになります。
 
ルイス・キャロルの翻訳者はずいぶん苦労をしたそうですが、聖書ではとりあえず意味だけは伝えます。すると、詩人の心にあった、形のないものを読者は感じ取るように要求されてくるような気がします。信仰するとはどういうことか、その思いが伝わってくるでしょうか。凡そ聖書なるものは、客観的な意味を示す文書ではないのだと思います。
 
こういう事実が記してある、という教科書的な文書に過ぎないならば、ただの言葉の羅列となります。しかしひとたびそこに自分が入り込めば、あるいは自分の人格全体が、神との呼応の関係の中に置かれてしまえば、神との出会いが成立し、読み手の人生を変える力をもつものになります。聖書はそのように読まれるべきだと私は思います。
 
観察者としての私が、世界の外にあって、無責任に文字を読解しよう、というような態度は、信仰とは違います。私を変える出来事をもたらす命あるものとして言葉は迫ります。私の内にそれが入り、私を新たに創造するのです。そのように私は感じますが、その感じている私そのものも、また変えられていくという構造になっていることでしょう。
 
「私は」のみならば「人は」との主語がそこにあっても、漠然と他人を示すようなものにはしたくありません。「人の子ら」であれ「皆」であれ、詩の終わりにあるように「私の口は主の賛美を語り」と、私自身が明確に主への告白をすることになる、と思うのです。その意識が「すべての肉なる者は」とすべての者へと拡大して、詩は結ばれます。
 
そこへ至る前に、倒れそうだった私を支え、うずくまる私を立ち上がらせる主を称えます。苦しい中で、私は主の名を呼び、主に向かって叫びました。それはすべて主に聞かれており、救いの手を差し伸べる主の姿を目の前に見ました。その奇しい業を、私は思い起こします。そこには、豊かな恵みがありました。神から与えられる恵みを覚えました。
 
神の憐れみを知りました。神の絶大な恩恵を覚え、涙しました。私のためになんという大きなことをしてくださったのか、独占するくらいの思いで神を見上げました。そこで、また私は主を賛美します。主と向き合い、主の愛に貫かれた魂を抱え、私はここに生かされています。そして、この主の業の証人として、主を指し示し、語るのです。


Takapan
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