幸いな民は神との関係に基づく

チア・シード

詩編144:1-15   


150の詩編の中で、どれほど「幸いな者」が指摘されていることでしょう。この詩もそれで結ばれています。但しダビデとされる詩人は、これを「民」に帰しています。幸いなのは個人というよりも、集団なのです。あるいは「国」と呼んでもよいかもしれません。ただ、詩の冒頭からして、私に戦いを教え、神を私の慈しみ、城、砦などと挙げています。
 
ダビデにとっての救いであり、逃れの盾が主なのだ、と高らかに謳っています。ダビデは王です。王の信仰が、王と神、そして民と神との関係を築くことになり、国の勝利と繁栄をつくることができるというのです。ヘブライ書にも引用されているように、「人とは何者なのか」と問うところがあります。その答えは、容易には分かりません。
 
しかし、神が人を知るという事実だけははっきりしています。神が人を思いやっている、ということは確かなのです。たちまち過ぎゆく影のような存在に過ぎなくとも、神に目を留められていることは疑うはずもない、というのです。「息に似ている」姿は、儚さを示すのでしょうか。神の息は霊であり、命をもたらすことになるはずです。
 
ダビデは神の大いなる力を称え、諸外国の民からイスラエルを守ってくださることを求めています。王の力は、王という人間によって完成するものではありません。ダビデはどこまでも主を信頼しています。たとえ空しいことを語る異邦の民であっても、ダビデはやはり不安なのです。それは、「災いの剣」に見えて仕方がないのです。
 
ダビデは、主が自分に子どもたちを授け、財を与え、家畜や食糧をもたらしていることを知っています。だからこそ、この民は「幸いな者」だと宣言します。恵まれたから祝福されている、と言っているのではありません。根柢には、神と人との関係、信頼のつながりといったものが、確かに強く存します。それが大切なことなのです。


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