苦境の中での経験

チア・シード

詩編143:1-12   


苦しい祈りです。ダビデの詩だとされていますが、ダビデは確かに、人生で幾度も苦境に立たされてきました。雇われたサウルに命を狙われ、敵の部下にすらなり、それでも王になりましたが、子どもたちの争いは絶えず、自らも追い出されます。とんでもない過ちをしでかした後、後継者争いもイスラエル史の汚点のように残りました。
 
この詩は、追い詰められた者の叫びであり、ひたすら主の前へ切迫した状態で、逃げ場のない己れをぶつけています。確かにダビデの至らぬ行為の数々にも拘わらず、この主に対して向き合う姿勢だけは一度も揺るぎませんでしたから、ダビデが選ばれその子孫からメシアが登場するというのも、主に対する信頼だけであるような気もします。
 
この苦境は、私自身経験したことでした。この詩のすべてを生身で感じました。置かれた暗闇、行き場のない閉塞感、それも明らかに敵に囲まれてのものでした。詩人は、かつての良き思い出を振り返り、それと比較しますから現状の苦難がよけいに惨めに覚えたことでしょう。闇もそうですが、乾ききった大地のような精神状態を嘆くばかりです。
 
けれども、土地が乾いていれば、注ぐ雨をすべて吸収することでしょう。神の恵みを感謝し、どんどん吸収していくということも起こります。主よ、とその顔を見上げる心も真摯です。弱く滅びかけようとしている自分にできることは、そのくらいのこと。あなたの声を聞きたい。言葉が欲しい。背中を押してほしい。歩み始める第一歩と、歩き続ける力が欲しい。
 
さらに道を備えていてほしい。自分で指針や計画を立てることが、もうできないのです。ただ上を見て、主に手と心を向けます。心を開いて求めるだけです。こうした切羽詰まった状態は、そういつも経験したいとは思いませんが、一度知るのはとても良いこととなります。初めて聖書の言葉に命があることが、私にも実感できましたから。救いを体験したのです。
 
偽りのない本当のこととして、こうした言葉があることをかみしめます。神こそ逃れる先であるという体験をするならば、本当にその方の僕となれるでしょう。神と対等に立ち向かっているような錯覚を、信仰だなどと勘違いしていないために。そしてこの神を慕う私がいま現に生かされているということが、神の義として称えられるべき栄光となります。
 
もちろん私の栄光ではありません。あなたが導き手です。私はいま生きています。生かされています。これを阻む敵がいます。そこへは怒りをぶつけてよいのです。但し、その怒りは神の怒りです。神がそれを滅ぼすことで、私の命が与えられる、その約束をただ信じるのです。真実で義である主よ、あなたこそ、私の神であります。


Takapan
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