遠くから見れば

チア・シード

詩編138:1-8   


ダビデが生涯を振り返ったときの詩でしょうか。私が呼び求めたその日に答えてくださった、そう言えるためには、少しばかり時間が必要なように思います。その苦労から時を置いてようやく、気づくのでは、と。現実には何日も、あるいは何年もかかったでしょうか。遠い先から見ると、その日その時に主が答えたように見えるのかもしれません。
 
コロナ禍が続きました。2年目の過ぎるのは実に早かったようにも思えます。でも、それは私がまだ恵まれた環境にあったからのような気がします。苦しい生活を強いられた人々には、早いどころか、その一日一日が、真綿で締め付けられるようなものではなかったでしょうか。中には、主を信じ、日々主を見上げて祈っていた人もいるはずです。
 
その魂を、果たして主は力づけていたのでしょうか。その人は力づけられたと思う信仰が与えられたでしょうか。今や地上の王たちが主を見上げる、と詩人は口にします。世はなんと終末を迎えたかのようです。ダビデの視点は、もう神の約束の成就した中にあるのです。ただ、たとえ私が苦難の中を歩んでいても、という形で詩は進んでいます。
 
思い起こした事なのか、それともいまなおそうであるのか、はっきりとは決めにくいように思えます。むしろ読者が、それを受け取ればよいと考えます。主は私をそうやって生かすのです。敵の怒りを防ぎ、右の手で私を救ってくださる。これでも言い足りないのか、詩人は、主は私のためにすべてを成し遂げてくださるのだ、と言っています。
 
そう、すべてです。もちろん聖書はしばしばオーバーに、何でも「すべて」と記す習慣があります。でも、少しばかり現場の混乱を離れて世界を見るとどうでしょうか。時には俯瞰も必要です。時には、自分のいる世界を、自分を含めた形で見渡してみることもよいのです。主は確かに、すべてを成し遂げたのではないでしょうか。
 
人の目には近くて違いがありすぎるもの、わずかな差でぶつぶつ文句を言いたいもの、それも、主の大きな視点に重ねるならば、一瞬にして同一のものとなってしまうことがあります。反対は一致し、永遠の相の下に捉えることも可能だと思うのです。見下したり裁いたりするのではなく、愛をもって、主の慈しみを噛みしめたいと思い、祈ります。


Takapan
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