慈しみは今もなお

チア・シード

詩編136:1-26   


「慈しみはとこしえに。」ひたすらこれを繰り返す詩。多くの人が集まって歌うには、満点の効果があります。一人で目で追うような詩ではないと思います。誰かがリードして初めのフレーズを叫べば、他の全員が「慈しみはとこしえに」と追いかけるように声を合わせるのです。そのメロディが決まっていて、リーダーだけが微妙に変える繰り返しです。
 
いつ終わるとも知れないままに、歌は次々と流れていきます。「主に感謝せよ」と始まるこのやりとりは、「天の神に感謝せよ」の段で結ばれます。この約束さえ了解されていれば、いつ終わるとも知れないままに、延々と続けられても構わないのです。神の、大自然へ向けての大いなる力を称えるという、喜ばしい詩がそこにはあります。
 
さらに、エジプトを出た歴史を顧みると、その初子を打った、というように、現代の人道的な観点からするとやや抵抗のあるフレーズも出て来ます。敵を討ち破ることは、民族が生きていくためには必要な手立てではありました。出エジプトの出来事は、イスラエル史に取り、それだけ決定的なものであったというのは確かなことです。
 
敵の王たちを討つというのも同様です。約束の地カナンを目指して、記述上は60万人以上の民が列をなして移動します。この道を阻む者に対して、道を拓く営みをなすモーセの手腕は、いくら評価してもしすぎることはないでしょう。アモリ人の王シホン、バシャンの王オグを殺した主を称えるのも、時代的には当然だとせざるを得ません。
 
民の通過を拒んだシホンを剣にかけ、続いてイスラエルを迎え撃とうと現れたオグを打ち殺したのでした。そこはイスラエルの土地となります。敵の手から、主が助け出したということが重要なのです。低くされていた小さな民族イスラエルが、今や高められたのです。この救いは、私たちにもいままた及んでいることを感じます。


Takapan
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