イスラエルはどこへ向かう

チア・シード

詩編135:1-21   


「ハレルヤ。/賛美せよ」と始まり、「主をたたえよ」「ハレルヤ」と結びます。標題は付けられていませんが、この直前までは、しばらく「都に上る歌」という題が付くものが続いていました。エルサレム神殿を巡礼する仲間たちの方へ、しばらく向いていた眼差しが、ここからまたひたすら主に向かうように感じられます。賛歌とも呼べるでしょうか。
 
「ハレルヤ」で囲まれる詩は、146編以降ずっと並んでおり、その先駆けのようにも見えます。恵み深い主は、イスラエルを先ず主の宝とします。この主は天地を創造しました。イスラエルの民を束縛したエジプトを打ちました。飢饉のヤコブ一家を救いました。エジプトをこんなにも悪役にしてしまうのは忍びないのですが、我慢して戴きましょう。
 
新生イスラエルとしての旅立ちが、エジプトを脱出することであり、それがどんなに嬉しかったかが伝わってきます。そして、民族は約束のカナンの地を征服します。原住民を殺戮し制圧することが、神の約束した地を与える正義となっていることも、現代的には抵抗のある物語でしょう。これを根拠に、現代のイスラエルが動いているとすると、尚更。
 
イスラエルは、自らを選ばれた民として自覚しており、ただ主の御名を称えることに於いては何の憚るところもありません。主は生きておられ、偶像とは異なる存在です。たとえ銀や金であっても、神像は、たかが人間の造ったものです。命あるものではないし、命をもたらすこともできません。息もしません。それは、生きる霊をもたないということです。
 
偶像への痛烈な批判をここに含めたことは、決して悪いことではありません。しかし、思うのです。神像だけが偶像であるのだろうか、と。神ならぬものを神とすることへの警戒を、決して怠ってはならないのではないでしょうか。時に自分自身を、人は偶像にもします。教会組織や教義や信条を、果てはキリストまでも偶像にするかもしれません。
 
詩人は、イスラエルの家・アロンの家・レビの家、そして主を畏れる人たちに対して、「主をたたえよ」と繰り返します。その信仰を悪く言うつもりはありません。でも、内輪へ向けられたこの感情が、エジプトやカナン人をひたすら敵として憎むような真似を続けること、それがいまもなおつながっていやしないか、と憂うからです。


Takapan
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