麗しい詩を辛辣に解釈してみる

チア・シード

詩編133:1-3   


かぐわしい油にヘルモンの露。恵みと祝福を美しく表しています。私たちから見れば、ささやかなさりげないもので表現したように見えますが、たぶんそういうものではなかったのでしょう。油を注ぐのは王のことで高価な油だったはずだし、パレスチナに露がつきにくいので命の水の恵みは金で買えるようなものではなかったと思われます。
 
主が祝福と永遠の命を授けるようなことがここに挙げられていました。詩の結びは軽いものではありません。あまり見ないタイプの祝祷です。祝福は土地か長寿が常識だった旧約時代からすると、永遠の命を持ち出すのは、いったいどこからそうきたのでしょうか。それは、詩の冒頭の有名なヒネマトーヴに関わっているように見受けられます。
 
イスラエル人がこよなく愛したフレーズであり、歌としても有名です。兄弟が共に座っている。新しい訳では共に住む。これが最高の幸せであり、美しいことであると言っています。私たちはどうしても、ここに教会というものを思わないではおれません。教会がこうでなくてはならないということを示してはいないでしょうか。
 
こうあるべきだ、という堅い言い方はしないでおきましょう。こうあるだろうか、とずばり尋ねることにしましょう。そうだよ、と胸を張って答えてくる教会があるとしたら、私は逆に心配します。ひとりよがりの能天気さの故に、誰かが我慢して、あるいは苦しんでいることにさえ気づかずひとりいい気になっているのではないか、と懸念します。
 
ひとの痛みも分からず、知ろうともしないで、自分が明るさを押しつけ続けて、皆ひとつ心で友に集まっています、とにこにこ言うリーダーがいたら、逆に悲しくなります。実はダビデがそうでした。この詩はダビデが作ったことになっていますが、他人がダビデの名を付けたのなら、私にはあてつけのように思われてなりません。
 
息子たちの間の諍いと憎しみに気づかず、自分では曖昧な態度を取り続けた父ダビデ。そのため息子たちは殺し合いをし、そこから父を裏切り窮地へ追い込むことになるアブシャロムが現れました。のほほんと息子兄弟たちが和合していると思い込んでいたダビデの愚かさをこの詩が思い出させるとしたら、なんと辛辣な教訓なのでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります