深い淵の底から叫ぶのは誰か

チア・シード

詩編130:1-8   


責め、叱ってくる者には人は恐れを抱くもの。しかしね畏れを懐くのは、それとは別のこと。私たちは、むしろ赦す者に畏れを懐くのだ。これが詩人の、神に対する根本的なテーゼです。実のところ、これは私たちが実際に感じているところでしょう。脅されると確かに怖いのですが、それは相手を敬う思いをもたらしません。
 
赦す人に対しては畏れ入るものです。そしてこの人に従おうと思うようにもなります。脅しにかかられてはそんなことは起こりません。いま詩人はどん底にいます。しかもそれは、自らが招いたもののように見えます。自分でそれが過ち、あるいは罪の故だと分かっているのです。それが自ら裁いたような結果に陥ることなく赦されたということのようです。
 
淵というのは恐ろしいものです。抜け口が無く、這い上がれません。回復不能な事態を想定せざるをえません。それが赦されました。但し、私は祈っていました。そして主を望んでいました。主からの言葉を待っていました。だから、同胞イスラエルの民よ、主を待ち望め。そこには豊かな赦しがある。購いがすべての過ちに及ぶ、救われるのです。
 
このようにして、この詩は深い罪からの救いの期待として受け止めるべきものとして理解されていますそれはそれでよいと思います。しかし、詩人が過ちを犯したとは、とりあえず見る限りは確定できません。そこで想像してみます。もしもこの詩をイエスが祈ったとしたら、場違いでしょうか。ゲッセマネでも、十字架上でも。
 
人の罪を背負い、淵の底から赦しの主へと訴えるイエスなど、極めて特殊な存在です。その特殊なところから出てくる叫びである、そんな詩だとして読むことも、味わい深いような気がするのです。何故私を見捨てたのか、と天に叫ぶあのイエスを思うならば、この詩も重なってくるように見えるのですが、どうでしょうか。
 
私たちも、幾度かこのような苦しい場面を生きてきたはずです。人それぞれその形は違いますし、苦悩の度合いも違うでしょう。それは傍から見て苦しそうというのとは違う、当人でないと分からない厳しさが伴うものです。イエスは、そのどの苦悩についても、伴っていてくれます。そして最後には、罪からの救いを宣言するのです。


Takapan
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