命がある限り

チア・シード

詩編128:1-6   


あなたの命がある限り、エルサレムの繁栄を見るように。子孫を見ることができるように。この祈願があり、イスラエルの平和を加えて、この詩は閉じます。祈りの詩です。これもまた、幸いな者という言葉で始まりますが、詩編全体がこれをテーマとしていると言ってもよいでしょう。詩編の冒頭からして、「いかに幸いなことか」なのでした。
 
イスラエルの民がエルサレムという拠点を保ち、子孫に恵まれること、素朴ですが、旧約の人々の願いは、おもにこの点にありました。約束の地で神を称えるその礼拝においても、子を産むことで祝福とする考え方がよくありました。そのために主を畏れ、主の道を歩むことが求められています。道というのは、信仰のことです。
 
詩の作者にとってはそれはユダヤ教というものでしょうが、私たちからすればキリスト教であってよいでしょう。この信仰を進んで行くことがよろしいのです。ここから具体的な姿が描かれていきます。その労の実は搾取されることもなく、無に帰すこともありません。でもこれをなにげなく読み飛ばしていた人は、紛れもなく幸いだと言えるでしょう。
 
この世には、しばしば不条理に辛酸を舐めている人がいます。まさに社会とはままならぬものであり、己れの幸いならざることを嘆く人が、実にたくさんいます。但し、自らが幸いな部類に入ると分かった人も、その幸いが、誰かを苦しめているが故の幸福でないのかどうか、吟味する必要がありましょう。ここが深読みです。
 
でも、やはり素直に恵みを喜ぶ心も、大切であるはず。ここに挙げられている例は、どうしても男社会のものですが、妻子がいて幸せだというものになっています。それでも、それをひとつの象徴として祝福とはこういうものだというふうに描いているものだと受け止めてもよいでしょう。つまり、夫や親がいて幸せだ、などというように。
 
詩人という特殊な人間の立場から言葉を紡いでいますが、主があなたを祝すように、と言葉と心を注ぎ、命のある限り、と告げます。今ここでその命はもう永遠のものとして与えられていたことにお気づきでしょうか。少なくとも、イエスを通して、私たちはそうした恵みの中にいるのです。イエスの祈りと苦しみとが、私たちを引き入れたのです。


Takapan
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