家族は救い

チア・シード

詩編128:1-6   


詩編は歌の歌詞です。たとえば今の教会の礼拝で歌うとすれば、頌栄に続いての祝祷など如何でしょう。祝福あれ。詩はそこから始まります。豊な祝福に満ちている詩編は心地よいものです。呪いばかりあるよりは、幸せな気持ちになれます。幸いなるかな、とイエスも教えたことが福音書に記されています。それは人々の耳目を集めたことでしょう。
 
手の業を称えるというのは、人から神へのものでしょう。けれども神もまた、人の手の技を祝福してくださいます。アダムの罪以来、人は労して食を得なければならなくなりました。新共同訳のように「すべて」が入ると、食べ物しか得ないように見えますが、原文は必ずしもそう読む必要はないように見えます。また、搾取に喘ぐ人々がいる中で、いくら得ても食べ物にならないということさえあることに思いを馳せましょう。
 
それは幸いである。善いことである。そう概観した後で、詩は具体的な描写も怠りません。但し、これは壮年の男性を想定しているだけのようで、限定した設定は少し残念です。だがそれだけに男性の責任が重いという一面もあると見ましょうか。家族はぶどうの木、またオリーブの木だと喩えられています。多産の樹木であり、豊さを示しています。イスラエルの象徴でもあります。これを、家族と共に住んでいない人を除外する読み方はしたくありません。友だち、とくに教会に仲間がいるならば、間違いなくそれは「家族」と呼んでよいはずです。
 
根の深いぶどうはしっかりと大地に立ち、ビネガーはイエスの十字架に関わったでしょうか、またその血を表すことは言うまでもありません。オリーブの油は油注がれたメシアを象徴するとも思えます。家族はキリストにより与えられました。いえ、キリストその方です。家族は救いです。家族によって自分は何と救われているのだろうと気がつきます。当たり前のようにそこにいて、自分に奉仕するのが当然であり、自分の言うことを聞くのが家族なのだと錯覚していた自分を思います。私はそんな価値のある存在ではなかったはずです。キリストに愛され救われるのは当然だなどと、口が裂けても言えるはずがないのです。
 
詩は最後に、「あなた」へと祝福を向けます。私に与えられた祝福は、今度は私からまた新しく、外へ向けて拡がっていくように要請されているのです。そのために私が何かをするというのではなく、神の祝福があるように、と私からキリストを通して力が、愛が、流れ出ていくのです。
 
人生のすべての日にエルサレムの栄えを目撃するがいい、と詩人は「あなた」を祝福します。この時にはまだ、パレスチナのあの街が破壊され尽くすとは、思いもよらなかったことでしょう。けれども私たちは、荒廃しようがそこが潰されようが、そして自分が死のうが人間が滅びようが、永遠の都がくることを信じています。いえ、信じることで、いますでにここで手にしているとも言えるのです。家族や友だちが、あるいは教会共同体の仲間がいるということで、それがすでに救いであり、平和であるのです。平和の都、エルサレムとして。


Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります