歴史を顧みる

チア・シード

詩編126:1-6   


再びあのときのように。歴史を知ると、そのように思うことがあります。否、あれはもう戻れない時であり、もしもというようなことを考えるべきではない、という意見もあります。イスラエルはかつての繁栄を再び、と願う国でした。それはただの夢幻ではなく、いつかメシアが再びそれをもたらすという、前向きな信仰につながる願いでした。
 
そのため、この民は、子どもたちに教育を施します。歴史を学ぶ民である故に、歴史をしっかりと教えます。教育の力は大きなものです。人をつくり、国をつくり、未来をつくります。権力者が改竄したような誤った歴史ですら、時に信じられてしまうことがあります。情報の有無が未来を歪めることにもなりかねません。
 
この詩編も、聖書も、歴史そのものではないとすると、その信頼性はどう影響するでしょうか。否、聖書は歴史ではありません。聖書は希望です。かつてを思い、再びと願う。いまはどんな状態であるか。こう思いを馳せつつ、やっとのことでスタートラインに立てたイスラエルの民。崩壊した神殿を目の前にしたそんな人々を想像してみます。
 
冒頭を見ると、神殿が完成したかのようにも思えます。あるいは、これから取りかかるようにも見えます。神殿再建は苦労の連続だったと歴史書から窺えます。また、かつての神殿に比べて実に貧弱なものだったとも言われています。いまから続々と仲間が帰還する、その期待を胸に、希望をもってエルサレムを見つめている人々がいます。
 
けれども、私たちは、震災の惨状を目の前に、呆然と立ち尽くしている人たちの姿をも重ねてみてよいような気もします。復興の幻は描いても、あまりにそれとは遠い現実がそこにある。この人の信仰はどうなのでしょう。さらに、人間の浅ましさや愚かさの前に立ち尽くしているのは、被災者でない人々にとってもありうることです。
 
信もなく、知恵もなく、時流や虚言に惑わされ流され、誤った幻想すら抱いている自分。その流されている自分のことすら気づかず、いつかくる取り返しのつかない後悔の時へと向かう運命の中にあるような自分たちの姿を、絶望的に見るようにさえ思われます。そこへ、「再びあのときのように」というフレーズが近づいたきたら、どうでしょう。
 
目を覚ますのです。気づくのです。涙が流れます。涙が待っています。泣きながらでもいい、またここから出て行くのです。歩き始めるのです。それでもなお、神は喜びをもたらすお方であるのだということを、期待できるのです。期待してよいのです。そのために私たちは、祈り求めています。主よ、と天を見上げて、祈り求めているのです。


Takapan
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