いま夢を見よう

チア・シード

詩編126:1-6   


夢を見ている人のようになった。喜びの歌と共に戻ってくるなどという落ち着いた気分は、この誌の最初の部分では、まだありえないのではないと思います。捕囚の民が戻ってくると聞き、詩人はまず、夢を見ているのと同じだと言いました。そこに理性による制御はありません。しかも「わたしたち」です。仲間がいます。一人の妄想ではありません。
 
一人の夢想は、時に集団幻想となりますが、そう評すならそれはそれで構いません。でもこの歴史は、イスラエルの民が皆で共有した経験なのです。エルサレムが再び、かつての栄えを取り戻すようになるはずだ。この期待の心を、さあ、私たちもまた共に喜ぼうではありませんか。夢を見ようではありませんか。
 
歴史上のあの時のことだな、などと冷たい視線を送り突き放して見るのではなくて、いま共に体験しているものとしてみましょう。と言われても、いま目の前でそれほどに喜び躍るような出来事を見ているわけではない、と言われるかもしれません。ならば、心の目で見てみましょう。こめから、この景色が目の前に現れるのを待ちましょう。
 
詩人は、主の手がその業を成し遂げたとしていましたが、これから成就するものを私たちが見ていて、そのために私たちが夢見心地になっているということです。何を見せてもらったのでしょうか。再び繁栄がもたらされた様子です。昔々、アダムが置かれたエデンの園。すべてが良かったというあの楽園の姿です。
 
祝福の時は、幻の中でしょうか、記憶の奥でしょうか。もはやそれを区別する必要すらありません。それほどに、詩人も、そして私も、幻を現実と一つにしてゆくことだって許されるのではないかと思いたい。そう、いずれこの景色を見るでしょう。この喜びを味わうのです。私の意志がそれを決定づけることはできず、私の外からそれは与えられます。
 
主が実現してくれます。約束に基づいて、それは起こるのです。いま泣いていても、かつて泣いていても、主の約束は確かにあるのです。「ある」という信頼に支えられ、私は神を称え、私は神に支えられています。新しい歌を、喜びの歌を、主の前に共に捧げ、歌いながら、目の前の仕事を誠実に果たしていこうではありませんか。


Takapan
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