帰還のイスラエルに身を重ねて

チア・シード

詩編126:1-6   


捕囚の地から戻ってきたイスラエルの民。祈ってきたこと、願い求めてきたことが叶ったのです。どんなにうれしかったことでしょう。神に感謝し、躍った心を表したに違いありません。それはまるで、キリストに出会って救われた時の私たちの体験のようです。イスラエルの歴史もさることながら、このクリスチャン体験を重ねてこの詩を味わってみましょう。
 
私は囚われていました。神ならぬものの手により捕らえられ、その支配下に置かれていました。まるで夢を見ているようなこの救い。喜びに満たされ、主の業を称えます。めでたし、めでたし。――そうでしょうか。詩は、これで終わってはいないのです。4節の初めが問題です。私たちの囚われ人を連れ帰ってくれ、との新共同訳。私たちの繁栄を元に戻してくれというフランシスコ会訳。その繁栄の語を欠くのが新改訳2017。
 
何を戻すのかは、原典の文献選択にもよる場合があります。ただ、戻るのは確かです。戻るからには、元が良かったはずです。たとえばエデンの園に最初人間は置かれたのでした。それはそれは良い時代です。神の支配を受け、守られていた幸せな時代。楽園の回復で片づくかどうか分かりませんが、神の国はそれに類するものであるような気がします。
 
人はいま、まだその全き者とされているわけではありません。詩人と共に嘆きます。自分はなんと足りないところばかりの器なのか。惨めな者だと見なさざるをえません。救いの喜びが与えられたのも束の間、今度はやけに自己嫌悪に陥るということが待っています。自分はクリスチャンとして、てんでだめではないか、と痛感させられるのです。
 
なんとみすぼらしいクリスチャン。涙に包まれて、私はまた世の生活を送らなければなりません。教会の中でもトラブルがあり、また不満が湧いてくるし、自分が貢献できないつまらなさも覚えます。奉仕ができる人が羨ましい。自分には何の取り柄もない。何かしても失敗ばかり、能力は劣っている。優しくもなれないし、人格者には程遠い。
 
でも、私は種を蒔きましょう。淡々と、できる何かをしましょう。神はきっと刈り取りの時、喜びで満たしてくださるものと考えましょう。自分の力に慢心するのが良いはずがありません。悲しむべきなのです。自分のことを嘆くがよいのです。それでよいのです。その経験があって初めて、いつか穂を束ね背負い、戻ってくることができると思うのです。
 
自分で作ったものではない、神からの恵み与えられた何かを受けて、再び立ち上がることが、きっとできます。そのことだけは確信していましょう。イスラエルの詩人の見た幻は、私たちクリスチャンの希望となります。希望は現実となるでしょう。神の国が実現するでしょう。きっと、私たちも、この私でさえ、そこにいさせてもらえるでしょう。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります