私からあなた、そして主

チア・シード

詩編121:1-8   


詩人は何のために、「山々に向かって目を上げ」たのでしょうか。「私の助けはどこから来るのか」を確認するためです。答えはすぐに見つかります。あるいは、すでに知っていて同意していました。「私の助けは主のもとから」来るのですし、「天と地を造られた方のもとから」来るのです。この主は、天に在すから、見上げるのです。
 
それは空という意味ではありませんが、人間としては空を見上げるほかありません。詩人は助けを必要としていました。そして助ける方を知っていました。でも、詩はそのスタンスから急に別のところへ跳びます。「主があなたの足をよろめかせることがないように」と始まることで、基本的に「あなた」を目的語をするようになるのです。
 
つまり「あなた」を対象として、詩人は言葉を連ねてゆくことになります。もう「私」はどこにも登場しません。舞台には「あなた」のみがいます。所がその「あなた」は、一度も主語になることがありません。主語は即ち主体ということであり、主人と見なしてもよいでしょう。「主人」とは誰でしょう。同語反復のようですが、主人は「主」です。
 
「天と地を造られた方」であり、「イスラエルを守る方」です。主語は、この主なる神でした。人間は主人とはなりません。なってはいけません。但し、すべての主語が主なる神であるわけではありません。「昼、太陽があなたを打つことはなく/夜、月があなたを打つこともない」だけ、主語が太陽と月になっています。否定形の中でのみの主語です。
 
乾燥地での昼の太陽は、人間にダメージを与えたことでしょう。夜の月は、人間に狂気をもたらす源と見なされていました。しかし太陽も月も、主なる神の被造物に過ぎません。支配する主人ではありません。ところで、詩人は初めに「私」と神との関係から歌い、すぐに「あなた」へとターゲットを移していました。この「あなた」とは誰でしょう。
 
ヒントは、標題にあります。詩編120編から134編までの詩すべてに、「都に上る歌」という題が付けられています。エルサレム神殿に、もしかすると一生に一度かもしれない巡礼に詣でる人々の喜びを、歩きながら歌ったのではないか、と思われます。共に主の許へ行こう。励まし合い、主を称え歌います。互いに「あなた」と呼び合う仲間でありました。


Takapan
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