あなたを大切にしたいから

チア・シード

詩編121:1-8   


詩人は助けを求めていました。山々を見上げて助けを待つとき、主から来ることが分かりました。主はこの山をも空をも、つまり天地すべてを創造したのです。詩人の具体的な信仰の姿勢が伝わってきます。自然神学から啓示神学への橋渡しをするような、詩の冒頭となりました。このスケールで捉えた世界の中に、自分もいます。心強く思えます。
 
ここから詩人は視点を換えます。突然「あなた」と言い始めるのです。同時に「主」をも挙げていますから、詩人は主でもないし、その「あなた」でもありません。誰かある人に対して、もしや仲間に対して話していることになりましょう。父が子に、祭司が民に、古来解釈に苦労したとも言われます。いっそのこと「あなた」とは自分のことかもしれない、とも。
 
よく「他者」と言います。自己と他者との関係が思索されます。けれども、そんなかしこまった相対しかたであってよいようにはどうしても思えないのです。「あなた」でいい。私にとりかけがえのない誰か一人、人格としてそこにいて心を通わせたいと願う人、大切にしたいと考えている人。あなたと少なくともいま呼べる人のこと。
 
あなたに、主が守りを与えてくださることを信じての叫びです。私にも助けが備えられたと思っています。山を見上げ、主から助けが確かに来ることを知っています。その同じ主があなたにも及ぶはず。それは間違いありません。私にとって主は「助け」を与えますが、あなたのためには「守り」を与える。このアングルの違いが実に正直で新鮮です。
 
あなたにとりそれが助けであるかどうか、それは私が判定する権利のないことです。私にはただ、主があなたを守っていることを知っていると言えるだけです。それを助けとして理解するかどうかは、ひとえにあなたの側での信頼が必要となるわけです。あなたを守る主を私は知っているが、あなたがそれを近く感じるかは、あなたの信仰次第だと言うのです。
 
この主という方は、まどろみはしません。狂気を及ぼす力からもあなたを守ります。あらゆる災いからも守ります。いえ、災いは襲いかかりますが、魂を守ります。どこへ出て行こうと帰ろうと、いつでもいつまでも主はあなたを守ります。この宣言が、私からできる精一杯の「愛する」ということなのだろうと思います。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります