見える神殿の向こうに

チア・シード

詩編121:1-8   


絵になる詩編だと言えるでしょうか。聳える山々。イスラエルの地のどこから見上げているか分かりませんが、都上りですからエルサレムを見上げているのでしょう。山というより丘という感覚で見ているのかもしれません。シオンの丘という呼び名で、憧れの神殿を見つめる詩人がここにいます。あの神殿へ上れば、私は助けられる。神は喜んでくださる。
 
イスラエルの主から祝福を受けることを望みつつ、巡礼の徒は絶えません。すべてを擲ってでも、エルサレムまで人々はやってきます。しかし詩人は気づきます。神殿からではない、と。あの建造物を偶像化することはできないのです。助けて下さるのは、主ご自身に違いないではありませんか。主の力が私を助けるのであって、神殿ではありません。まして、神殿に詣でる自分の労苦が助けるのでもないでしょう。
 
詩人はここで、誰か別のもうひとりへと視点を移します。ここまで自分の助けを語っていたのが、主が「あなた」を助けるようにと祈り始めるのです。この視点の変化は、古くから解釈者たちの悩みの種でした。修正さえする訳や写本もあったといいます。けれども、自分が理解できないからという理由で作品を書き換えるというのはどうでしょうか。
 
そこで、父が子に、あるいは祭司が民に語りかけているのではないか、という推定があり、それならばこの唐突な人称の変化も納得できるものでしょう。こうなると、途中から祝祷がなされているとも考えられます。神殿も大切ですが、主が直にあなたを守るのだと強調しますから、力強い祝祷であると言えましょう。
 
エリヤがバアルの預言者たちに、お前たちの神は眠っているか旅に出ているかと皮肉ったのを思い起こします。偶像ならばはたらきませんが、主は生きておられるからまどろむことがありません。エリシャの預言で生まれた子どもが太陽にやられたこともありました。また月は狂気の因と考えられていまは英語にもその名残の語が残っています。しかしこうした心配ももう要りません。
 
すべての災いから遠ざける、という祝祷は、文字通りには信用できないかもしれませんが、少なくとも魂は守られうることは私たちにも理解できます。詩の末尾は含みの多い語を並べて、「今もそうだし永遠にこれからずっと」というような言い回しで結ばれています。こんな祈りを聞く側からすると実に心強いものです。都上りは、神殿詣りではなく、全能の主と直接つながる賛美と祝福の飛び交う祝祭でもありました。


Takapan
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