詩編もまた神の言葉

チア・シード

詩編119:9-16   


詩編はいったい神の言葉と言えるのかどうか、考えることがあります。神からの言葉が書かれていない場合があるからです。そこにあるのは、人間の信仰表明です。長大なこの119編は、一つひとつの節に、神の「言葉」を指す語がほぼすべてにわたり含まれるという、特殊な形で成り立っています。その意味では確かに神の「言葉」であるのでしょう。
 
主の道を歩む者でありたい。しかし人間にそういうことができるのかどうかも分かりません。憧れのようなものがあったとしても、己れの力と有様は、あまりにも惨めです。主の戒めの中から迷い出ぬように、と願ったところで、現実に自分がやっていることは、敗北の連続です。主の言葉である聖書を、確かに心に納め、口で称えることはしています。
 
けれども、なんとも実体のないものです。罪を犯したくないと求めはします。でも空しい願いだけのものとなって返ってきます。自分に栄光を帰すようなことを、してはいけない。せめてこの口から出るものが、神を賛美するものでありたい。あなたを伝えたい。そんなおまえが?と呆れられるのは当然ですが、それでもそれを止めたくありません。
 
私に唇がある限り、ここに主はおられる、と語りたい。私に心がある限り、主は喜びをくださった、と証言したい。これまで主が私をどう扱い、どう導いてきたかを思い起こし、それが真実であったことを噛みしめたい。それは、楽しい、としか言い様のない道なのでした。詩人自身の感慨をこの身に覚えることは、完全にはできないかもしれません。
 
けれども、二千何百年という時と文化、言語をすべて超えて、いまここで、この詩を知った私にとって、詩編の言葉は、この詩人と同じ主を見上げ、共感でき、共有できる思いを以て迫ってくることがあり得るのです。否、私の心からそれが湧き起こります。こういうことを起こすことができるのは、確かに神であるはずです。これは神の言葉です。


Takapan
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