誰もが若者として

チア・シード

詩篇119:9-16   


わたしとあなた。神の前に私がいて、向き合っています。長大なアルファベット詩編は、その連により、ある程度のまとまりをもつ場合がありますが、基本的に「わたし」と「あなた」とが対峙します。そしてわたしは、あなたの言葉ないし律法を受けて喜びとするのです。それが生きる縁となるのです。
 
ここでの「わたし」は、若者の立場であると考えられています。しかし、当時若者という言葉でどの辺りを指したのかというと、いまとは違う可能性があります。人生の盛りと見なされる40歳に満たない者を若者と呼んだケースがあるからです。ティーンエイジャーと決めつける必要はありません。あるいはむしろいまの時代は、30歳代でもまだ子どものようなものなのかもしれませんが。
 
あるいはまた、若者という言葉で、何らかの弱さや小ささを伴う表現としているのかもしれません。人は罪に対して弱いものです。すべての人間は若者に過ぎないと言えるような気もしてきます。その意味で、聖書の言葉はどこにおいても、他人事として遠くに見ることを許さないものであるとも言えましょう。
 
中央に、主を称える、あるいは主が称えられるように、というフレーズがあります。まとまりの中の中央はユダヤ文学では重要な個所と言われますので、注目する価値があります。そうすると、次に主の口から私の唇へと正義の宣言が受け継がれます。若者の弱さは克服され、自分の唇から漏れる言葉が主の言葉となります。現代の説教の課題がここに現れていると見ることもできるでしょう。
 
説教者自身、道を求め、主に反することを口にしないようにと願いながら宣伝するという営みがそこにあります。物語ると訳す場合もありますが、まさにそれは説教のことであってよいはずです。主から下される命令に心を砕き、思いを巡らせます。ひたすら道に目を注ぎ、喜びとしての神の言葉を見つめ続けます。自らそれを語るに相応しいかどうかを絶えず気にしつつ、説教者は目の前に道を見ていきます。
 
道とは何でしょう。ヨハネによる福音書では、イエス・キリストその方であるとして描きました。詩編119編が、神の言葉を様々に言い換えて繰り返し突きつけたこととつながります。それらをすべて「キリスト」と読み替えても、読むことができるのです。この詩編には、イエス・キリストが満ち満ちています。
 
説教者にはこれを説き明かす使命が与えられていますが、この「道」というメタファーを見逃すことはできません。イエス・キリストから目を離さず、いつも思いつつ歩むのです。若者として新たな翼を拡げ、あるいは主の翼に抱かれ守られて、まだしばらくの間とどまるこの地上生涯の世界の中で、主の目の前に向かいつつ、主と共にその道を生きるのです。


Takapan
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