言い返すとよい

チア・シード

詩編119:41-48   


私を辱める者に一言、言い返します。「私は御言葉に信頼する」と(聖書教会共同訳)。信頼するという告白を、神に対してではなく、はっきりと敵に向けて言い放ったことをこの訳は伝えます。新共同訳ではその点自由に想像できました。長大な詩編119篇の一部を取り上げて味わうしかないいま、今日はこの言葉を中核に受け止めることにしましょう。
 
これが言えたら完全であるように思えませんか。でも、これをしないでは生きていけないとも思うのです。私たちは誰彼構わず八方美人でいようとしていないでしょうか。我を通すというわけではないにしろ、自分と神との関係を脅かすものに対しては、やはり抵抗せざるをえません。世の声に聴き従うことはできないのが、聖書に生きる者の生き方でしょう。
 
辱めるというレベルにもいろいろあると思われます。本当の命に関わるほどの責めもあれば、人間扱いをしてこないというような仕打ちに苛まれることもあるでしょう。わずかな言葉、一寸した皮肉を言われて傷ついたとしても、辱めと感じて悪いはずはありません。それを黙して聞いて耐える、それも一つ。けれどもここで詩人は、言い返すことをしているのです。
 
信仰者らしからぬ姿勢のようにも見えます。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せというのがキリスト教倫理なのではないか、と思う人はそう見るでしょう。果たしてその人がどう生きているのかにも興味がありますが、それはともかくここで何も喧嘩を売っているのではないことは確認しましょう。証しをすること、信頼・信仰を告白しているのです。
 
神の言葉に信頼する。メロスの約束を信頼したセリヌンティウスは、命懸けの信を懐いていましたが、私たちの神への信もそれ以下のものであってはならないでしょう。真実の言葉を私の口から奪わないでほしい、との願いも、神の言葉を遺してくれという叫びのほかに、私の口から出るこの信仰告白の言葉が真実のものであるように、との祈りでもありましょう。
 
私はそのため、実は広いところを自由に歩いていることになるのです。律法に縛られると不自由であるように、特に現代人は感じます。だから、律法に従うことこそが自由であると考えると、それはまるでパラドックスのようにも思えることでしょう。神の制約が、私にとっては自由であることの根拠になる。そんな馬鹿なことがあるものか、と。
 
けれどもこれこそが、信仰の基本でもありましょう。たとえ地上の王の前でも、怯えず怯まず、堂々と神と自分との関係を語ることができる自由がもてるのです。主の戒めを喜びとする、それが私の人生なのだ、と何ものをも恐れずに告白できるのです。そこに神の慈しみと救いが来ます。私は敵の攻撃に対して、適切に言い返すべきだと分かります。


Takapan
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