それは道

チア・シード

詩編119:33-37   


道を示し、道へ導き、道で私を生かしてください。聖書協会共同訳では、このような言葉を以て詩人の心の高まりが展開していきます。これを見ると、詩人はまだ道を明らかには知らないかのようにも見えます。だが恐らく、すでに道を教えてもらったが故にこそ、言えるものではなかったでしょうか。自分のものになっているかどうかは別として。
 
いまも詩人は道の途上であるのでしょう。だが道が何であるかについてははっきり知っているのです。それは主の掟・戒めに従う道です。これを守ることができるように、と詩人は願います。従うことができるように。いやはや、従い通せるものではないでしょう。律法は人に、罪の中にあることを痛感させることしかできないとパウロが言う通りです。
 
だがイエスの時代、ファリサイ波などは、自分は立派に戒めを守ることができており、これを守れない立場の者たちに対して優越を覚えていました。精神的にも社会的にも自らを優位に置くための道具として、律法を利用していましたが、それがまた、イエスを通じて、福音とは何かをはっきりさせる背景ともなりました。
 
詩人は終わりまで従いたいとうたいます。その終わりなるものをもう達成したんだぜ、と振る舞ったのがイエスの敵たちでした。もちろん自称に過ぎません。今の時代もこうした敵はいるのではないでしょうか。聖書の中の出来事は過去の歴史であるという決め込みをしがちに私たち。けれども、それは昔話ではなく、今も起こっていることであるはずです。
 
聖書が描いていることは、今ここでもう一度でも百度でも起こること、起こっていることなのではないかと思います。詩人の心は不当な利益に目移りしていたのかもしれません。このも今の私たちによくあることです。胸に手を当ててみると、きっとそれに気が付きます。分からないなら、自己欺瞞であり、ただの自己愛に支配されているだけでしょう。
 
聖書の福音は、その精神から最も遠いところにあります。空しいものに目を奪われる事態から逃れることができる、それが主の道でしょう。掟や定めというより、神の言葉がきっと私を連れて導いて行きます。この信頼が、私の動力となります。私が何かするというのでなく、身を任せるような心。きっと、真実はその辺りにあるのでしょう。


Takapan
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