主と向き合う詩人だからこそ

チア・シード

詩編119:33-40   


私はどうしたらよいのか。私がどうにかするのだ。特に近代的思考はそのようにスタートします。主語として自分があり、自分が主体になろうとします。それが当然過ぎることだと思っていることを疑う必要があります。自分で自分の道を決める自由があると考えており、そこに責任があるのだ、とえてして他人に対して横暴に振る舞う社会の日常があります。
 
でもそれは普遍的なことではありません。現にこの詩人はどうでしょう。旧約の知恵は、私と主が向き合う中で、たえず主の方から作用があり、支え導かれている設定になっていないでしようか。私の道は主から示されます。終生それに従いたい、それが私のなすべきこと、そして願い、また喜びですらあると告白するのです。
 
目を惑わすものが世の中には多々あります。不正により得ができるのだという誘いがかかってくるかもしれませんが、しかしそこに命はありません。詩人は主を見上げます。主の心が成りますように。私はもしかすると非難を浴びるかもしれないし、そのことを恐れる心があることは否定できませんが、それに対して主が成す結果を信頼していたいものです。
 
そこにこそ命があります。私の生きる道があります。まことに一途な詩人の思いですが、人間が自分自身を修正しようとしてもなかなかそのようにできる訳ではありません。「わたし」を「あなた」に、「あなた」を「わたし」に。詩はたえずこの交互の営み、作用を描いて、人が神の前に向き合う様子を描いています。
 
人と神とが向き合うというのはひとつのイメージでしょう。物理的に向き合っているものではありません。また、それができるとも思えません。どだい無限なる全能者が有限な人間と対等に向き合う場などあるはずがなく、比するべくもありません。しかし人はこのように言うしかないのです。人の言葉はそのようにしか表現できないのですから。
 
言葉自体が有限であるため、もどかしい気がしますが、それでも詩人は呼びます。神の名を呼び、神に問いかけ、自分の決意を告げます。神からの声に応えます。何によって命を得させてくださいというか、それはツェダカー、つまり義です。新共同訳はこれをここでは「恵み」と訳しています。神にあって義と恵みとは実は同じことだと理解しておきたいものです。


Takapan
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