逃れの道を求める祈りに縋る

チア・シード

詩編119:25-29   


その昔、詩編143編に縋ったことがありました。信仰生活を始めて、一年ほど経った時のことでした。足を踏み入れた教団が強いてくる教えは、私の出会った聖書の神との間に立ちはだかる人間の解釈としか思えず、圧迫してくるものでした。これは聖書とは違うという確信はあったものの、自分が教会を選んだのではなく神に選ばれたという意識がありました。
 
自分の好みで勝手に出て行くのではなく、神の言葉を待とうと考えたのです。必要ならば神のほうが新たな道を備えてくださるというふうに信じていました。その導きを143編がしてくれたということです。この詩編119編は、主の言葉の詩編です。唯一の節を除いて、すべてに掟や律法など主の言葉を意味する語が含まれているアルファベットによる技巧詩です。
 
ここはその4番目ダレトの連です。ここには143編のスピリットで綴られているように感じました。自分は的の前に崩れ伏しています。それが罪の故であるとは告白されていません。悔い改めているように読めないこともないのですが、主の道をひたすら焦がれ求めているように見えます。哀しみが全身を覆っていますが、逃れの道を探していることは確かです。
 
神はこれまで、自分に奇しい業を示して下さっていた。ところが今、偽りの道が自分を襲っている。これを遠ざけてほしい。いま自分は真実な道を行きたいと臨み、この道こそ、と信じています。後は主が決めて下さい。あなたの道を走りたいのです。私の心は未来へ向けて広がり、おおらかな愛へと開かれていくことを願っています。
 
私のあの時の思いに重なってきます。もしこの箇所に出会っていたとしても、きっと同じように導かれることができただろうと思います。私はかつて詩編143編が与えられましたが、この119編と出会う人もきっといることでしょう。ひとにはそれぞれに相応しく、時に適って、神からの言葉が与えられます。ひとはそれを握り締めて、立ち上がるのです。
 
しかし、自分が正しいと思い込みはじめると、自分の思いつきを優先させて先頭を行かせがちです。それを正当化するために、神の言葉をまで道具として利用し、根拠にしてしまいます。これを転倒の罠と呼びましょう。神を原理とせず、自分が原理であり目的となり、神を手段にするのです。目を覚ましていることが必要です。上からの言葉を待ちましょう。


Takapan
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