主役は誰

チア・シード

詩編119:25-32   


「御言葉によって」命を得させてください、とここで詩人は主に祈ります。他の邦訳では「御言葉のとおり」のようなニュアンスで訳してあるものが目立ちます。神の言葉として聖書を見るとき、聖書の言葉の力によって生きるようになるのか、聖書に記されていることが実現して生きるようになるのか、の違いです。私はどちらを願っているのでしょう。
 
結局同じこと、と片づけることができるかもしれません。状況によりどちらにでも受け取れる、と。119編は、この神の言葉なるものがテーマとなっています。122節を例外として、すべての節に、神の言葉を表す語が必ず紛れています。起きてとか命令とか表現を替えても、神の言葉と向き合う長大な詩編として、私たちの前に聳えています。
 
28節にも同じ語があります。ヘブル語で同じということです。こちらを同じ新共同訳が「御言葉のとおり」と訳してしまいました。他の訳も先ほどと同様このようにしています。今度は「御言葉のとおり」立ち直らせてくれ、強めてくれ、というのですが、むしろ新共同訳はこちらのほうこそ「御言葉によって」が似合うような気がするのですが如何でしょうか。
 
ヘブル語は簡潔な表現で多くの意味を含みます。しかし日本語だとひとつしか表せません。「御言葉によって」のときは、私が中心にいて、私を目的として神の言葉を働かせて助けてほしい、というように聞こえます。一方「御言葉のとおり」のときは、神の摂理、神の御意を中核に据えて、その計画どおりに成るように、というように聞こえます。
 
単に私を救ってください、と求めているだけであるのかどうか、そこが問題であるようにも思えます。主の計画が実現するように、との祈りは、イエスが主の祈りにおいて教えたことでした。どう祈ればよいか、との弟子の求めに対する応えとして、こう祈れと言ったのが、神の御心が地において実現するように、というものでした。
 
また、「信仰の道をわたしは選び取りました」とありますが、この「信仰」の語が曲者です。他の邦訳では「まこと」が幾つもあります。原語はエムナーで、この語は堅く動かない真実を中心として、さまざまな意味合いを含んでいます。ここから「アーメン」という語も由来していると言われますから、キリスト教にとって重要な語であると考えるべきでしょう。
 
アーメンという言葉が、真実であり信仰でありまことであるという、実に(!)大切な考えを併せもつことがここから分かります。深く広い言葉です。私がこの道を選びました、偉いでしょ、と言っているのではないのです。私の信仰の故に正しい道を選択しました。だから私を救ってください、そんなことを言っているのではないのです。
 
それは神の真実です。「イエス・キリストを信じる信仰」と訳していた新約聖書のフレーズが、新しい聖書では原語により忠実に、「イエス・キリストの信」という神学的議論を踏まえた形で訳出されています。神が私の行く道を広げてくださいます。神が私をどのように設え、調え、立たせてくださるのか、そちらが先であり、ある意味ですべてなのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります