長大な詩の謙虚な結び

チア・シード

詩編119:169-176   


人は神に向かって叫ぶことがあります。願いを出す、苦しみを訴える、喜びを知らせる、いろいろあるでしょう。しかし、果たしてそれらは神に聞かれているのでしょうか。神に届いているのでしょうか。長大な詩も、ついに結びの時が来ました。時に知恵文学のように神の律法についての英知を語りもしましたが、やはりすべては神へ向けての祈りでした。
 
神との対話であり、命の息の交わされる通路でありました。本当にこの祈りは神との交わりとして成立していたのでしょうか。神は聞き入れてくれたのでしょうか。どうかこの叫びが主に近づくものでありますように。あなたが基準となってその奥深い恵みを知ることができますように。私は願います。それがどうか主に届いていますように。
 
主の言葉を信頼しているから、そのままに、私を救い出してほしい。詩人は、そしてイスラエルの民は、いやこの聖書の読者すべてが、そして私が、共に一つの言葉の内で心を重ね、祈り求めているのです。だから私は主を賛美しよう。唇から零れるのは主への賛美だけでいい。主の言葉と主からの恵みを歌っていれはれそれでいい。
 
ありったけの言葉を自分の内から呼び出して、詩人は主に向かい称えます。同じ言葉ばかり繰り返すのではありません。あらゆる表現を探そうと努めるのです。それでも足らないもどかしさを常に覚えつつも、私は称える、そういう感じです。ところが、いよいよ末尾、最後の一行へ辿り着いたところで、詩人はすべてを覆すようなことを言い放ちます。
 
「私は失われた羊のようにさまよっています」――だから探してくれ、戒めを忘れませんから、と、いくらか不安な響きを醸しだしつつ詩を終えるのです。気づいています。いくら、主よハレルヤと踊ったところで、人は人なのだ、と。そんなに堅固な足場があり、安定しているものではない、と。これを弱気と呼ばず、謙虚な態度だと味わいたいと思います。


Takapan
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