痛い

チア・シード

詩編119:153-160   


主の律法を忘れたことがない。主の定めから離れない。主の諭しを愛している。これらの強い確信は、「私は」という主語に続いています。私は主の戒めをどう思っているのか、それを畳みかけるように詩人は述べます。主に向かい「あなたの」と呼ぶ詩人が、いまどこに立ち、どちらを向いて心を打ち明けているのか、その姿を見つめたいと思います。
 
私もまた、そこに身と心を重ねたい、とも願います。詩編の恵みは、まさにこういうところにあるはずです。他人行儀で人の信仰を傍観するのではなく、まさに私も詩人に寄り添ってこの詩を体験するのです。たとえばいま詩人は苦しみの中にあります。贖ってほしいというところまで、相当に追い詰められていることが分かります。
 
悪しき者が迫ってきています。けれども、神の裁きが正しく行われることを信頼して、自分は救われるという確信を懐きます。果たして私たちもそのような心境になれるでしょうか。争いが起こることがあります。争いは、それぞれが自分は正しいと思い込むことからぶつかって起こります。双方が、自分の正しさを主張し、一歩も引きません。
 
こうして、歴史上幾多の戦争が勃発しました。国家規模で正義同士がぶつかることで、戦争となります。互いに、相手は悪だから相手を滅ぼそうとします。けれども、詩人はそういうことを祈っているのではありません。自分は正しい、とひけらかすような真似はしません。実のところ、まず自分が悪だったのです。罪を知るところからスタートしました。
 
人間は自分が神の側にいると思い込んでしまうと、神に代わって私が争うというような前提に立ってしまいます。聖戦がこのようにして成立します。でも本当はそうではなくて、神のほうが私に代わって争うのです。私は黙っているべきでしょう。この決定的な違いを弁えておく必要が、どうしてもあるだろうと私は思います。
 
欺く者がいたのを見て、詩人は胸を痛めます。この心理を私は支持します。悪者だから即座に敵であり、憎むべきものだと決めつけないでおくのです。詩人は胸を痛めています。見ていて辛いのです。近年こういう心理を「痛い」と称します。本人が何か真剣に求めて頑張るのに、それが本人の目指すこととかけ離れた結果をもたらすのです。
 
見ていて辛い気持ちになる。車に趣味の絵を描いて目立たせているものを「イタ車」と言います。以前はこれはイタリアの車ということでしたが、「痛車」と書くと、見ていて痛々しくなるという意味をアピールします。自分で良かれと思い失敗している服の着方をしていても、見ると痛い気持ちになる、そんなふうな意味で言葉を用います。
 
まことに残念です。もし自分がその立場だったら、なんとか軌道修正をするのだが、如何せん他人なのでそれを強いるわけにもゆかない。それが痛さとなるのです。私も人々に「痛い」と思わせているような一人なのでしょう。いえ、誰よりもイエス・キリストこそが「痛い」と思っています。事実十字架で苦痛の極致を味わい、命を棄てたのです。


Takapan
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