神の言葉は闇を照らす光
チア・シード
詩編119:105-112
長大な詩となった119編は、神の言葉についての言及が徹底しています。アルファベット順のまとまりがつくられ、日本語訳ではその効果が分からないため、とにかく意味を伝えることに、翻訳は使命を果たしているだけとなります。仕方がありません。神の言葉は光であり、私の行く道を照らす灯である。この有名な句を身に受けてみましょう。
すぐに気がつくのは、ここは闇であることが前提になっていることです。その光がないと歩けません。道ならぬところに向かって進み、困難を窮めてしまうことでしょう。光あるうちに光の中を歩め、とヨハネ伝が告げたときは、そこは光の中でした。人は光を知っているはずでした。知っていたなら、誓いを果たすべく努め、神に従って歩むはずでした。
詩人は、その道から迷い出ることがなかった、と堂々と語ります。掟に従い実行することに心を傾けます、と宣言しています。イスラエルの人々の強みは、この神の掟が自覚的に与えられていることです。民に与えられた神の律法があるということ、それだけで人生に頼るものがあるわけで、己れのピンチのときに、そこへ身を寄せることができるのです。
自分を信じて生きる、などというような主張は、一見逞しいようですが、こうした自分しか頼るものがない、というのは、実際貧相な実情を明かしているに過ぎないのではないでしょうか。詩人は、自分がひどく苦しんできたことを知っています。常に危険に晒されていることを感じています。罠が悪人どもにより仕掛けられていることも、分かっています。
しかし、神はその言葉によって、私を生かしてくださる、と確信します。その言葉を決して忘れず、そこにすがりついて離れないのです。いつまでもその姿をキープするという誓いを宣しています。自ら精一杯の賛美を神に献げ、今日もまた、あなたからの諭しを受けることを期待しています。決して強がっているわけではないのです。
神のなさる決定を喜び、神の示す道に立っていたい。クリスチャンであれば、そのような理想像を思い描くことはあるでしょう。けれども、私自身からは光を発することはできません。光は私の外から注ぎます。自分で頑張らなくてよいのです。自分を燃やし、奮い立たせる必要はありません。神からの恵みを、詩人はただ待っているのです。