ハレルヤと祝福

チア・シード

詩編113:1-9   


主を賛美せよ。原語の「ハレルヤ」はあまりにも有名になりました。邦訳もこれを出しています。歌う詩としては、決まり文句としてこの歯切れ良い言葉が入るというのはよいことかもしれません。いわゆるアルファベット(ヘブル語ではアレフベートと言うべきかもしれせませんが)順に語が始まるという技巧を凝らした二つの詩がこの前にあり、「ハレルヤ」で始まっているけれども、この113編から118編までがまとめて「ハレルヤ詩」と呼ばれます。
 
フランシスコ会訳の解説によると、次の114編と共にこれは食前に歌い、他は食後に歌うものと見られているそうです。だから114編と115編の間にだけ「ハレルヤ」がなく途切れており、ほかは連続して歌う中での区切りとして「ハレルヤ」が置かれているというのです。過越を思い起こすためで、「エジプトのハレル」とも呼ばれているといいます。詩の末尾の「ハレルヤ」は次の詩の冒頭にずらして置いてある場合(七十人訳とウルガタ訳)もあるのですが、要するに区切りであるからどちらでもよさそうではあります。
 
日の昇るところから沈むところまで、とは空間地理的なものとばかり思っていましたが、考えてみれば時間的に一日中というふうに捉える意味も含まれているかもしれないと気づきました。主に守られた私たちは、それに応じてすべてにわたって主を賛美する意志を示します。
 
主の高い座を見上げてほめ称える美しい賛美ですが、「低く下って天と地を御覧になる」というのが気になります。フランシスコ会訳は「深い所を見下ろされる」とだけ訳していますいずれにしても、弱い者、貧しい者を立たせ起こす様を歌いたいのでしょう。弱小イスラエルを選び支えた主なる神、古にはエジプトから脱出させ新天地を与えて下さいました。これを誇りとし助けと理解してイスラエルはすべての迫害と困窮の歴史からその都度立ち直ってきたのでした。
 
歴史を踏まえ、思い起こしては、その時与えられた未来がいままたあるのだと握りしめる生き方ができる民族の精神です。それは神への信頼です。そうすれば神は報いを与えるでしょう。自由な人々の列云々というのは、高貴な身分のことかもしれませんが、フランシスコ会訳は、君主たちと共に並ばせると訳し、イスラエルの民は他の国の王以下には置かれないという誇りをもって歴史の中を潜ってきたことを感じさせます。
 
子のない女の惨めさと苦悩については、サラをはじめハンナのことを思います。新約のときにはエリサベトもそうでした。社会の中で自立できない立場に置かれた女たちは、子を産むことでひとりの人間としての価値を有するものと見られていました。子をもてぬ涙を拭う約束でこの詩は結ばれます。様々な女性がいますから個人でこれを背負うとしんどいのでしょうが、民族の繁栄という視点から見れば、子孫が増えるということは確かに祝福であり、未来を与える存在と考えられたことでしょう。
 
現代人が個人を尊重する流れにあることについてケチをつけるつもりはありませんが、それは個人を大切にすることというよりも、個人の欲望を正当な権利として優先させることに走り、時に他者を抑えつけてまでも、言った者勝ちにさせるような法や制度となりがちではないでしょうか。子育てや出産の意思ある女性が大切にされない風潮の怖さを軽視している社会よりは、イスラエルの女性のほうが、もしかするとまだ大切にされていたのかもしれません。「ハレルヤ」は、ひとを大切にし祝福するかけ声でもあってほしいと願います。


Takapan
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