自ら損する道

チア・シード

詩編112:1-10   


いわゆるアルファベットによる詩であることは明白で、各節の最初の文字が、ヘブル語のアルファベットの文字が順に並ぶという技巧を凝らしてあります。日本の和歌にも、伊勢物語に「かきつばた」を織り込む折句と呼ばれる技巧が有名ですし、大喜利にもよく使われる方法でもあります。但し詩編では、最初に「ハレルヤ」とまず主を称えます。これはアルファベット以前のお決まりのようです。
 
まず祝福あれと宣言します。主を畏れその戒めを喜ぶ者が祝福されるといいます。その人は子孫に恵まれ財を豊かになすであろう、と。闇の中に光が昇り人生は順調に流れていくでしょうし、心優しく憐れみ豊かです。こうして、主に従う義人がひたすら誉め称えられている、と読んでいけば、それだけで終わりそうですが、私はひとつの点に注目しました。
 
それは、このとは「貸し与える人」だという点です。「与える」ではないのです。貸すだけのことなら、私たちも日常的にやっています。施したならば立派だと言われそうですが、貸すだけでどうしてここまで褒められるのでしょうか。律法には、ヨベルの年という規定が記されています。50年に一度、いわば徳政令が実行されるようなものです。従って、呼べるの年が近づくにつれ、土地の価格が変化するのも当然でした。奴隷関係にしてもすべてがチャラになるというのです。
 
ある意味で不条理なこの制度があるとき、「貸す」ことすら、ある意味で与えることになりかねないことが分かります。貸し渋りどころの騒ぎではないのです。そこへ貸し与えるとなると、もう損を覚悟で捨てるようなものでもあったのではないでしょうか。これをする人が稀有であるからこそ、敢えて損をする行為に出た人が称えられるとするならば、素直に納得できます。
 
貸すことが実のところ与えることになる。それが正しい人だと称えられます。正義とはなんと損な役回りでありましょう。この詩が大声で歌われているとき、人々はどんな思いでそれを聞くのでしょう。自分にはそんなことはできない、と引いていくことが想像されます。貧しい人々がこれを歌う中で、金持ちたちがその場を退いていく様相です。
 
挙げ句、これに耳を貸さず憤り歯ぎしりするような金持ちたちは、精神的に滅びに至るとまで呪います。神に逆らう者である、と貧しい人々が大合唱をするのです。「貧しい人々にはふるまい与え」る人こそが神に祝福されるのだ、とこの詩は歌っています。イエスが、天に宝を積むという話も、なんだか重なってくるような気がします。
 
しかしもしこの詩がイスラエルの中で広く歌われていたとすれば、イスラエルの倫理性は、なんと宗教的水準の高いものかと驚きます。いや、そんな建前や画餅が何の意味があるのか、と現代の私たちの社会は嘲笑することでしょう。誰もこんな詩人の言いぐさに同調などしないでしょう。秩序がなくなるではないか、と。まさにそれは、神なき時代だからです。でもそれは、自分が朝から労働していたぶどう園の労働者だと思い込んでいる立場です。夕方にようやく雇われた労働者こそが自分だと気づく者は、不当な契約だなどと騒ぎ立てはしないでしょう。
 
貧しい人に惜しみなく与えることの正義。それは明らかに、貸す者にとり、損な道です。敢えて損を選び実行する人に対する神の祝福。漠然とした抽象的な「正義」でなく、実に具体的な、血の滲むような行為に裏打ちされた、この「彼」。どこかにいませんでしたか。敢えて損を選び、血を滲ませた人。いえ、血にまみれた人。主イエスが私たちにしてくださったことを思い起こさないならば、もはや私たちはなんの幸いをも持ち合わせていないことになるでしょう。イエスを見上げ、改めて「ハレルヤ」と叫びたいものです。


Takapan
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