ヤハウェとキリストのイメージ
チア・シード
詩編110:1-7
「主は、私の主に言われた。」この書き出しが、新約聖書の福音書では好評です。なにしろそれは、キリストのことを描いているように私たちには見えて仕方がありません。この訳では、新改訳聖書の計らいが、うまいこと実情を伝えてくれています。「主は」と「私の主に」の「主」は、別の語なのです。これを新改訳聖書は分かりやすく示しています。
太字の「主」で表された方が、いわゆる「ヤハウェ」という固有名詞としての神の名です。これが主語の「主は」です。「私の主に」の「主」は普通字体です。これは、主人という普通名詞です。これら二つの「主」は当然別の存在なのですが、それを日本語訳でも一目で分かるような約束を、新改訳聖書は統一ルールとして掲げているのです。
この二つ目の普通名詞の「主」を、ダビデはどう見ていたのでしょうか。ある人は、それはダビデが理想とする「王」を示すのではないか、と捉えています。イスラエルに於いて偉大な王とくれば、後の世の人々は、まずダビデを推すことでしょう。しかし、そのダビデにも、自分が憧れる理想の王のイメージというものがあったのではないでしょうか。
その王は、つねに主なる神の右に在す。その敵は、神によって王の足台となり踏み下されます。2節の「主」はヤハウェです。ついでに言うと、4節で「誓い、悔いることはない」の主語もヤハウェです。その後、右に立つ主、国々を裁く主は「主人」の方です。こうして、詩の中に現れる「あなた」も、その都度指す者をころころと換えています。
初めの方は「主人」を、ヤハウェが「あなた」と呼んでいます。ところが5節の「あなた」は、ダビデから見てのヤハウェのことを指しています。日本語訳は、聖書協会共同訳のままでは、この辺りがさっぱり分かりません。なんとかこの混乱を避けることはできないのでしょうか。新改訳聖書の太字のやり方は、その点とても分かりやすくなっています。
それにしても、ダビデが思い描くイスラエルの王たる存在は、私たちからすれば、やはりキリストというようにしか見えません。ダビデ自身がどのようにこの幻を見て考えていたのかは分かりませんが、少なくとも後のイエスの姿であったということは考えられません。いったいダビデには何が見えていたのか、ダビデから直接聞いてみたいものです。