自分こそ敵かもしれない

チア・シード

詩編10:1-15   


ヨブ記は、ひとつの極端なケースであったかもしれません。目も当てられないほどの不幸が襲った話であり、不条理極まりない出来事でした。でも、その構造に収まるようなことは、もっと身近に起こっているとすべきかもしれません。なぜ主は、この悪のはびこる世界から離れて見ており、人間界に介入することをためらうのでしょうか。
 
この世界で、主の正義が脅かされているのを、放置していてよいとでもいうのでしょうか。まるで、直ちに神の国をここにもたらせ、と迫るような勢いで詩人は問います。もちろん、主を配下に置こうなどと考えているわけではないでしょう。むしろ、主にただ問うています。そして、懇願しています。どうか、主の正義を実現してください、と。
 
主の名を掲げる人間の世界に、主の名に相応しい正義を、実現してほしいのです。そこへ至る道を敷いてください、と願うのです。神の敵の繁栄について詩人は、歯痒い思いをしています。否、それよりも、みなしごや虐げられた人という代表を掲げて、主の救うべき対象をイメージさせています。私は、この救われねばならない弱者に違いありません。
 
しかし私は、そうした人々を主の前に示す仲立ちをすべき者でもあります。それと共に、私こそが、この「敵」として行動していないか、よほどよく検討しなければならないとも思います。この視点を私たちは忘れてはなりません。自分は、実は暴力を振るう側として、虐げることを無邪気に善意だと弁明しつつ、やっているのではないか、と。
 
神を侮り、どうせ神はこんなところまで首を突っ込みはしないさ、などと嘯いていないでしょうか。神は、こんなことなど気に留めない、と軽んじてはいないでしょうか。これは結局、「神などいない」と言っているのと等しいということに、気づかなければなりません。神を確かに口にします。けれども、神の力などは、ないものだと軽んじているのです。
 
私たちもこの不信仰の沼にはまりうることを恐れましょう。よくよく点検しなければなりません。いつも気をつけていなければなりません。主を見上げ、とくに十字架のイエスを常に見上げ、苦しむ人の願いをすでに聞いてくださった方がここにいる、と言い切ってしまうのです。主を頼る人の上に、どうか平安がありますように。


Takapan
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