神の民の一員

チア・シード

詩編106:1-5   


主を賛美せよ。いつもながらのハレルヤ賛美が響きます。その慈しみはとこしえのものです。とこしえというのは、永遠に人には解せぬというようにも読めます。人が近づこうにも、永遠にそれはできないのだ、と。いったい誰が主の業を語り尽くすことができましょうか。誰が聖書の秘密を全部知っているぞなどと言うことができましょうか。主の計画の全貌を知ることのできる人間は、誰ひとりいないのです。
 
主について知りうることは、この「知りえない」という一点に過ぎないのです。賛美しようにもし尽くせません。その時幸いなる者は、義を保つ者と詩人は告白します。神の真意を知りえぬ人間にできることは、まずはせめて正しいとされることを勤しむしかないのです。自らそれを宣伝するつもりはありませんが、自分は精一杯、神の前に正しいようにありたいのだという弁明をするかのようにして、自分に目を留めてほしいと願います。
 
人間は、自分に力のないことを弁えつつもね、どこか認めてほしいという自負めいたものを有っているものです。私を覚えてくだい。たとえば王の前に出る家臣が、このような気持ちになるということを想像できるかもしれません。しかしこのとき、すでに王と家臣という立場がなくてはなりません。また、王がいるということは、王国があることを意味します。国がいて、民がいるという前提がそこにはあるはずです。
 
旧約の詩人は、イスラエルという国を前提に神の前に出ています。神の選民という事実が現にあります。これを疑う要素はありません。その上で、この民の一人として自分は民全体の喜びの中にいたいのだと願っています。その民に私は属するのです。共に主を、王を賛美していたのです。私はこのイスラエルの一員であり、神の選びの民イスラエルの祝福に与りたいのです。
 
イスラエルという名は、神の戦いないし勝利の意味を含んでいると言われます。この民は、新約の時代には、キリスト者たちに引き継がれます。私たちクリスチャンの群れが、神の民となっているのです。それはキリスト者とその共同体のことであり、よって教会のことでもあります。但しそれは、教会組織を指すようには思われません。まして、建物でもありません。人の生きた交わりの中で、神が現れ、ことばの中に立ち、出来事となる、あるいは歴史が生まれてくるという営みとして存在するものです。
 
私はその教会の一員です。神の民の一員です。教会の一端を担います。そしてこの起こっていく出来事を支えるまたはパーツのように形成の役に立ちます。同労者しての恵みに与ります。それは、教会がたとえ誤りを犯してもなお、その中にいる責任を負うこととなります。
 
この詩はこの後、イスラエルの罪を告白します。人が悪いのであって、神の責任ではない、とするところに、このイスラエルの信仰が生き延びた理由のひとつがあるでしょう。このことが、この神の真実を表していたとも言えます。神を忘れて罪を犯した民の故に、民は辛酸を舐めたのであって、神は義であり永遠であったのです。教会の罪と不義のために神が死ぬことはありません。但し、私もまたその教会の一員であることから目を背けてはならないのです。


Takapan
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