選ばれたスタート

チア・シード

詩編105:1-11   


小さかった民なのに、否、小さかった民だからこそ、神は目を留めました。この構図は、聖書を貫く神の一つの視点であり、秘密でもあると私たちは考えています。詩人がそれを見抜いているかどうかは決めないでおきましょう。それは本当に主の心なのでしょうか。どうやって主の計画を、ひとは知ることができるのでしょうか。あくまでも人間の側から見てのものでしかありません。これは人からの神への信頼のひとつの形です。
 
詩の冒頭は、いろいろな詩にも使えるような、いわばありふれた賛美のフレーズです。そこから主の力へと心を向けていきます。その業を見つめよとこの詩を、民と声を合わせて歌う様子が目に浮かびます。私たちが教会で賛美を歌うというのはどういうことであるのか、を考えさせます。しかも、そんな醒めた視点をすら忘れて、さらにまた讃える声を出していきます。
 
主に選ばれた者たちへの呼びかけがなされています。詩人が頭に思うイスラエルの民と共に、いまを生きる私たちは、周りの、または世界の、クリスチャンたちのことを思います。主は私たちの神。つまり私たちはこの主の民であるということです。この関係は、契約によって成立しました。
 
かつてアブラハムと神とが契約を結びました。割礼の前だったではないか、とパウロは叫びましたが、だとすれば律法の割礼とは何であったのか、と問うことも可能でしょう。また、それはとこしえの契約と称されますが、いずれ新しい契約に書き換えられることになったことを私たちは知っています。人の側からこのいわば契約の変更についてとやかく言うことはできないという構図があるのでしょうか。神の側が主導権を握る、「甲」となっていることになるのでしょうか。
 
詩人は、カナンの地が約束の地として与えられることを、実のところ与えられたが故に描いています。今日私たちはこの約束を聞いて、神の国の到来を思い浮かべ満足しています。しかし、この詩人の見ていた風景は後に、イスラエルの不信と国の崩壊へと続いていくことになります。主から離反した民が、契約を破棄したかのような有様です。あの「とこしえ」は人の側が破棄したようなものでした。
 
私たちクリスチャンは、かつて主を知らず、主から離れたところにおりました。それは、その以前にすでに神が私たちとを選んでいた、というように捉えることもできるように思えてきました。私たちは知らずして、約束を与えられた選びの中におり、それから自我をもって自分本位に歩み、主から離れておりました。それが主を知り立ち帰ったとなると、救いのときに初めて神に会ったのではなく、元来神の中にあったと見ることで、詩人の経験と私たちの経験とを結びつけることができると思ったのです。
 
主に選ばれた民がアブラハムの子孫だといいます。主の民は心に喜びを抱き、主の力を尋ね、主の顔を求めるのです。そして、主の業と審きを心に留めて、神の掲げていた真の意味での「とこしえ」の契約の中にとっぷりと浸かります。神はそれを分からせるために、絶大な犠牲を自ら払うことまでなさいました。選ばれた私たちのスタートは、神の目にはアブラハムから、人の目にはイエス・キリストから始まったという構図でよいのだと思います。


Takapan
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